吉備稚姫
- 名前
- 氏(ウジ):吉備【日本書紀】(きび)
- 名:稚姬【日本書紀】(わかひめ)稚姫
- 名:稚媛【日本書紀】(わかひめ)
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 雄略天皇7年12月30日)
- 没年月日
- 雄略天皇23年8月(7日 ~ 30日)
- 親
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 出来事
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雄略天皇7年
吉備上道臣田狭が御殿のそばに侍り、さかんに稚媛のことを友人に褒め語って「天下の美人でも私の嫁にかなう者はいない。気品があって様々な良いものを備えている。明るく温和で全てが整っている。化粧をする必要もない。久しい世にも類まれで今の世では抜きん出ている」と。
雄略天皇は耳を傾けて遠くで聞いて心の中で悦んだ。そして稚媛を求めて女御としたいと思った。天皇は田狭を任那の国司に任じた。
しばらくして天皇は稚媛を召し入れた。
田狭臣は稚媛を娶って兄君・弟君が生まれている。田狭は任地に赴いてから天皇がその妻を召し入れたことを聞いて、援助を求めて新羅に入ろうと思った。
この時期、新羅と日本は不和だった。天皇は田狭臣の子の弟君と吉備海部赤尾に「お前が行って新羅を罰せよ」と詔した。
このとき側にいた西漢才伎 西漢氏に管理された大陸系帰化工人。が進み出て「もっと優れた者が韓国 には多くおります。召し上げてお使い下さい」と奏上した。
天皇は群臣に詔して「それでは歓因知利を弟君らに副えて百済に遣わし、併せて勅書を下して優れた者を献上させよ」と。
弟君は命を受け、衆を率いて百済に入った。その国に入ると国神が老女に化けて忽然と路に現れた。
弟君は行き先が遠いのか近いのか尋ねた。
老女は「さらに一日歩いたらたどり着くでしょう」と答えた。
弟君は道が遠いと思って征伐せずに帰った。
百済が奉った今来 の才伎 帰化工人。を大島の中に集めて風待ちに託けて久しく留まり月を重ねた。任那 国司の田狭臣は弟君が帰ったことを喜んだ。
そして密かに百済に人を遣わして弟君を戒めて言うには「お前の首領はどれほど堅固で人を討てるというのか。伝え聞くところによると天皇は我が妻を召して既に子供もいるという。今恐れることは我が身に禍が及ぶこと。備えておくべきだ。我が子のお前は百済に留まって日本に帰るな。私は任那に留まって日本には帰らない」と。弟君の妻の樟媛は国家を思う心が深く君臣の義は確かだった。忠心は白日を越えて節は青松のそれに過ぎていた。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条】
それでこの謀反を憎んで密かにその夫を殺して部屋の下に隠して埋めた。-
雄略天皇元年3月
雄略天皇の妃となる。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇元年三月是月条】
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雄略天皇23年8月7日雄略記では己巳年八月九日。
雄略天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年八月丙子条】 -
雄略天皇23年8月(7日 ~ 30日)
吉備稚媛は密かに次子の星川皇子に「天下の位に登りたいのであれば、先ず大蔵の官を取りなさい」と言った。
長子の磐城皇子は母がその幼子に教えることを聞いて「皇太子は我が弟といえども安易に欺いてはならない」と語った。
星川皇子は聞かずに母の意に従い、遂に大蔵の官を取った。
外門を閉ざして事に備え、権勢をほしいままにして官物を費やした。ここに大伴室屋大連が東漢掬直に言うには「大泊瀬天皇の遺詔のことが今まさにやって来ようとしている。遺詔に従って皇太子にお仕えすべきである」と。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀 雄略天皇二十三年八月条】
そして兵を起して大蔵を囲った。
外を防ぎ固めて火をつけて焼き殺した。
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- 関連
毛媛 吉備上道臣田狭の妻をあるいは毛媛としている。【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条 別本云】