物部守屋
- 名前
- 氏(ウジ):物部【日本書紀,先代旧事本紀】(もののべ)
- 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
- 姓(カバネ):連公【先代旧事本紀】(むらじきみ)連公
- 名:守屋【日本書紀,先代旧事本紀】(もりや)
- 物部守屋大連公【先代旧事本紀】(もののべのもりやのおおむらじきみ, もののべのもりやのおほむらじきみ)物部守屋大連公
- 物部弓削守屋大連【日本書紀】(もののべのゆげのもりやのおおむらじ, もののべのゆげのもりやのおほむらじ)物部弓削守屋大連
- 弓削守屋大連【日本書紀】(ゆげのもりやのおおむらじ, ゆげのもりやのおほむらじ)弓削守屋大連
- 氏(ウジ):物部弓削【日本書紀】(もののべのゆげ)
- 物部弓削守屋連【日本書紀】(もののべのゆげのもりやのむらじ)物部弓削守屋連
- 物部守屋大連【日本書紀】(もののべのもりやのおおむらじ, もののべのもりやのおほむらじ)物部守屋大連
- 守屋大連【日本書紀】(もりやのおおむらじ, もりやのおほむらじ)守屋大連
- 物部弓削大連【日本書紀】(もののべのゆげのおおむらじ, もののべのゆげのおほむらじ)物部弓削大連
- 物部弓削守屋連公【先代旧事本紀】(もののべのゆげのもりやのむらじきみ)物部弓削守屋連公
- 弓削大連【先代旧事本紀】(ゆげのおおむらじ, ゆげのおほむらじ)弓削大連
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 敏達天皇元年4月3日)
- 没年月日
- 用明天皇2年7月
- 父
物部尾輿 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
- 母
阿佐姫 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
- 先祖
- 子
物部雄君 【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:不明】
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
大連 【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月是月条】
- 出来事
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敏達天皇元年4月3日
敏達天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇元年四月甲戌条】 -
敏達天皇元年4月(3日 ~ 30日)
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敏達天皇14年2月15日
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敏達天皇14年2月24日
蘇我馬子が病を患う。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年二月辛亥条】 -
敏達天皇14年3月1日
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敏達天皇14年3月30日
物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き、胡床にあぐらをかき、その塔同年二月壬寅に蘇我馬子が大野丘(おおののおか)の北に建てた塔。を斬り倒させて火を点けて焼いた。あわせて仏像と仏殿を焼いた。
焼け残った仏像は拾って難波の堀江に棄てさせた。この日、雲が無いのに風が吹き雨が降った。大連は雨衣を着た。
馬子宿禰とそれに従う僧侶を責めて非難の心を生じさせた。
そして佐伯造御室、またの名は於閭礙を遣わして、馬子宿禰の供養する善信らの尼を呼んだ。
馬子宿禰は敢えて命に違えることはせず、慟哭しながら尼を御室に渡した。
有司は忽ちに尼らの法衣を奪い、からめ捕えて海石榴市 の馬屋で鞭打った。
天皇は任那再建を思い、坂田耳子王を使いとした。
この時に天皇と大連が急に疱瘡を患った。それで派遣は果たされなかった。
橘豊日皇子に詔して「先の天皇の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と。また疱瘡を発して死ぬ者が国に満ちた。その疱瘡の患者は「身は焼かれ被打たれ砕かれるようだ」と言って泣きながら死んだ。
【日本書紀 巻第二十 敏達天皇十四年三月丙戌条】
老いも若いも「これは仏像を焼いた罪であろうか」と密かに語り合った。 -
敏達天皇14年6月
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敏達天皇14年8月15日
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敏達天皇14年9月5日
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敏達天皇14年9月5日
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用明天皇元年5月
穴穂部皇子は炊屋姫皇后を犯そうとして自ら強行に殯宮に入ろうとした。
寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。穴穂部皇子は「誰がここにいるのか」と問うた。
衛兵は「三輪君逆がいます」と答えた。七度「門を開けよ」と叫んだが、遂に聞き入れられなかった。
穴穂部皇子が大臣と大連に言うには「逆は甚だ無礼である。殯宮の庭で
誄 を読んで『朝庭を荒らさぬよう鏡の面のようにお浄めし、臣がお仕え奉ります』と申した。これは無礼である。天皇の子弟は多くいて両大臣もいる。誰が勝手にお仕え奉るなど言うことが出来ようか。また余が殯の内を見ようと思っても、拒んで入れようとしない。私が『門を開けよ』と七度叫んだが応じることもなかった。是非とも斬り捨てたい」と。
両大臣は「仰せのままに」と答えた。
穴穂部皇子は密かに天下の王となる事を謀り、偽って逆君を殺そうとした。遂に物部守屋大連と兵を率いて磐余の池辺を包囲した。
逆君は気付いて三諸の岳に隠れた。この日の夜半に密かに山を出て後宮「炊屋姫皇后の別の宮をいう。これの名を海石榴市宮(つばきいちのみや)という」とある。に隠れた。
逆と同姓である白堤と横山は逆君の居場所を密告した。
穴穂部皇子は守屋大連を遣わして「或る本に云うには、穴穂部皇子と泊瀬部皇子が計画して守屋大連を遣わしたという」とある。言うには「お前が行って逆君とその二子を討て」と。
大連は遂に兵を率いて出発した。蘇我馬子宿禰はその計画を伝え聞き、皇子の所に行って門「皇子の家の門をいう」とある。で会った。
大連の所へ行こうとしていたので「王者は刑人を近づけません。自ら行かれてはなりません」と諫めた。
皇子は聞かずに行ってしまった。馬子宿禰はやむなく随行した。磐余 に至り切に諌めた。
皇子は諫言に従い停止した。そしてそこで胡床にあぐらをかいて大連を待った。大連はしばらくしてやってきた。兵を率いて「逆らを斬り終えました「或る本に云うには、穴穂部皇子が自ら行って射殺したという」とある。」と復命した。
馬子宿禰は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言った。
これを聞いた大連は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。この三輪君逆は訳語田天皇の寵愛を受け、内外の事ことごとくを委ねられていた。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条】
これにより炊屋姫皇后後の推古天皇。と馬子宿禰は共に穴穂部皇子を恨むようになった。 -
用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。次の崩御記事が癸丑(9日)であるから丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。
天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
天皇は群臣に詔して「朕は三宝仏・法・僧。に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
物部守屋大連と中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
皇弟皇子 「皇弟皇子とは穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟である」とある。は豊国法師「闕名」とある。を連れて内裏に入った。
物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
大連はこれを聞き、阿都 「阿都とは大連の別業がある所の地名である」とある。に退いて人を集めた。中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
しばらくすると事の成り難いことを知り、彦人皇子の水派宮 水派。此云美麻多。に帰伏した。舎人の迹見赤檮「迹見は姓であり、赤檮は名である。赤檮、此れを伊知毘と云う」とある。は勝海連が彦人皇子の所へ退くのを伺い、刀を抜いて殺した。
大連は阿都の家から物部八坂・大市造小坂・漆部造兄を遣わして馬子大臣に言うには「群臣が私を謀ろうとしていることを聞いた。それで私は退いたのである」と。
馬子大臣は土師八島連を大伴毘羅夫連の所に遣わして、詳しく大連のことを話した。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
これにより毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を執り、槻曲 の家「槻曲の家とは大臣の家である」とある。に行き、昼夜離れずに大臣を守護した。 -
用明天皇2年4月9日用明記では丁未年四月十五日。
用明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】 -
用明天皇2年5月
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用明天皇2年6月7日
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用明天皇2年6月8日
宅部皇子が誅殺される。
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月辛亥条】 -
用明天皇2年7月
蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。
泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅らは軍勢を率いて、大連を討つために進発した。
大伴連噛・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣「闕名字」とある。らは軍兵を率いて、
志紀郡 から渋河の家に至った。大連は自ら子弟と
奴 の軍を率いて、稲城を築いて戦った。
大連は衣揩 地名。にある朴の木の枝の間に上り、雨のように矢を射た。
その軍は強く盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちの軍と群臣の軍は、怯え恐れて三度退いた。
この時に厩戸皇子は
瓢 のように髪を束ねて「古からの風俗で、年少の個、年十五、六の間は束髪於額(ひさごばな)にして、十七八の間は分けて角子(あげまき)にする。今もまた然り」とある。、軍の後に従っていた。
推し測って「もしかすると負けてしまうのではないか。願わずに成功は難しいであろう」と口にすると、白膠木 白膠木。此云農利泥。を斬り、すぐに四天皇像を作って髪の上に置いた。
そして誓いの言葉を発して「今もし我々が敵に勝つことが出来たら、必ずや護世四王 の為に寺塔を建てましょう」と。蘇我馬子大臣もまた誓いの言葉を発して「凡そ諸天王・大神王たちが我々を助け守って勝利を得ることが出来れば、願わくは諸天と大神王の為に寺塔を建てて三宝を伝えましょう」と。
誓いが終わると、様々な武器を備えて進撃した。ここに迹見首赤檮あり。
大連を枝の下に射落し、大連とその子らを殺した。これにより大連の軍は忽ちに敗れた。
兵士の悉くが黒衣を着て、広瀬 の勾原 で狩りをするふりをして散った。この役で、大連の子と一族は、或いは
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】葦原 に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者があれば、或いは逃亡先も知られぬ者もあった。-
用明天皇2年(6月 ~ 7月)
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