近肖古王
- 名前
- 近肖古王(きんしょうこおう)
- 諡:肖古王【日本書紀】(しょうこおう, せうこわう)
- 照古王【古事記】(しょうこおう, せうこわう)
- 肖古【日本書紀】(しょうこ, せうこ)
- 背古校異【日本書紀】
- 速古王【日本書紀】(そくこおう, そくこわう)
- 速古大王【新撰姓氏録抄】(そくこだいおう, そくこだいわう)
- キーワード
- 後裔は右京
三善宿禰 ・河内国錦部連 ・和泉国錦部連【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 後裔は右京
- 性別
- 男性
- 子
近仇首王 【母:不明】
- 出来事
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246年4月3日
卓淳王の末錦旱岐が斯摩宿禰に言うには「甲子年記事が丙寅年なので、二年前を指すか。の七月中に、百済人である久氐・弥州流・莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら、我が王はきっと徳の深い君王と称えるでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞いている。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意した後に通りましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言って帰っていった」と。
斯摩宿禰は従者の爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。時に百済の肖古王は深く喜び厚遇した。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】
そして五色の綵絹 彩った絹。を各一匹、角弓箭 角を材料にした弓。、鉄鋌 鉄材。四十枚を爾波移に与えた。
また宝庫を開き、様々な珍しい品を見せて言うには「我が国には多くの珍宝がある。貴い国に奉ろうと思うが、道を知らない。志があってもかなわないが、今、使者に授けて献上しようと思う」と。
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247年(5月22日 ~ 6月19日)
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249年(3月31日 ~ 4月29日)
神功皇后は荒田別・鹿我別を新羅征伐の将軍とした。
そして久氐らと共に兵を整えて卓淳 国に至り、まさに新羅を襲おうとした時に、ある人が言うには「兵が少なくて新羅を破ることは出来ません。沙白・蓋盧を送って増兵を請いましょう」と。
そこで木羅斤資・沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて沙白・蓋盧と共に遣わした。
共に卓淳に集い、新羅を撃ち破った。
そして比自㶱 ・南加羅 ・喙国 ・安羅 ・多羅 ・卓淳・加羅 の七国を平定した。兵を移して西を廻って
古爰津 に至り、南蛮の忱弥多礼 を亡ぼして、百済に賜った。
その王肖古と王子貴須は、また軍を率いてやって来た。
時に比利 ・辟中 ・布弥支 ・半古 の四つの邑が自然に降服した。
百済王父子と荒田別・木羅斤資らは、共に意流村 で合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送り遣わした。ただし千熊長彦と百済王は、百済国の
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十九年三月条】辟支山 に登って盟 った。
また古沙山 に登って、共に岩の上に居た。
時に百済王が盟って「もし草を敷いて坐れば、火に焼かれるかもしれない。木を取って坐れば、水に流されるかもしれない。岩の上で盟うことは、永遠に朽ちないということを示す。今後は千秋万歳に絶えることもなく、窮まることもないだろう。常に西蕃と称して春秋には朝貢しよう」と。
そして千熊長彦を連れて都に帰り、厚く礼遇した。
また久氐らを副えて送った。
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251年(4月8日 ~ 5月7日)
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(251年4月8日 ~ 252年1月28日)
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252年10月29日
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(255年1月25日 ~ 256年2月12日)
薨じる。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十五年条】
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