荒田別
- 名前
- 荒田別【日本書紀】(あらたわけ)
- 大荒田別命【新撰姓氏録抄】(おおあらたわけのみこと, おほあらたわけのみこと)
- 荒田別命【新撰姓氏録抄】(あらたわけのみこと)
- 大荒田命【新撰姓氏録抄】(おおあらたのみこと, おほあらたのみこと)
- キーワード
上毛野君 祖【日本書紀 巻第十 応神天皇十五年八月丁卯条】- 後裔は右京
大野朝臣 ・右京田辺史 ・右京佐自努公 ・大和国広来津公 校異:尋来津公・和泉国聟本 ・河内国伊気 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 生年月日
- ( ~ 神功皇后摂政49年3月30日)
- 没年月日
- (応神天皇15年8月6日 ~ )
- 子
- 出来事
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神功皇后摂政49年3月
神功皇后は荒田別・鹿我別を新羅征伐の将軍とした。
そして久氐らと共に兵を整えて卓淳 国に至り、まさに新羅を襲おうとした時に、ある人が言うには「兵が少なくて新羅を破ることは出来ません。沙白・蓋盧を送って増兵を請いましょう」と。
そこで木羅斤資・沙沙奴跪に命じて、精兵を率いて沙白・蓋盧と共に遣わした。
共に卓淳に集い、新羅を撃ち破った。
そして比自㶱 ・南加羅 ・喙国 ・安羅 ・多羅 ・卓淳・加羅 の七国を平定した。兵を移して西を廻って
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政四十九年三月条】古爰津 に至り、南蛮の忱弥多礼 を亡ぼして、百済に賜った。
その王肖古と王子貴須は、また軍を率いてやって来た。
時に比利 ・辟中 ・布弥支 ・半古 の四つの邑が自然に降服した。
百済王父子と荒田別・木羅斤資らは、共に意流村 で合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送り遣わした。 -
神功皇后摂政50年2月
日本に帰還する。
【日本書紀 巻第九 神功皇后摂政五十年二月条】 -
応神天皇15年8月6日
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