倭日向武日向彦八綱田
- 名前
- 倭日向武日向彥八綱田【日本書紀】(やまとひむかたけひむかひこやつなた)倭日向武日向彦八綱田
- 八綱田【日本書紀】(やつなた)
- 倭日向建日向八綱田命【新撰姓氏録抄】(やまとひむかたけひむかやつなたのみこと)
- 倭日向建日向八綱多命【新撰姓氏録抄】(やまとひむかたけひむかやつなたのみこと)
- 八綱多命【新撰姓氏録抄】(やつなたのみこと)
- キーワード
毛野君 遠祖【日本書紀 巻第六 垂仁天皇五年十月己卯朔条】- 後裔は和泉国
登美首 ・和泉国軽部 「雄略天皇の御世に加里(かり)の郷を献上したことにより軽部君(かるべのきみ)の姓を賜る」とある。・摂津国我孫 ・和泉国我孫公 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 垂仁天皇5年10月1日)
- 没年月日
- (垂仁天皇5年11月1日 ~ )
- 父
豊城入彦命 【新撰姓氏録抄 第一帙 第十巻 和泉国皇別 登美首条】
- 先祖
- 出来事
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垂仁天皇5年10月1日
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垂仁天皇5年(11月 ~ 12月)垂仁天皇五年十月から月が替わったが、年は替わっていないと判断。
狭穂彦は月が替わっても降伏しなかった。
皇后が悲しんで言うには「皇后といえども、兄王を失えば何の面目で天下に臨めましょうか」と。そして王子誉津別命を抱いて兄王の稲城に入った。
天皇は更に軍勢を増やして城を囲み、城の中に詔して「速やかに皇后と皇子を出せ」と言った。しかし出てはこなかった。
将軍八綱田は火を放って城を焼くと、皇后は皇子を抱いて城の上を越えて出てきた。そして請うて言うには「私が兄の城に逃げたのは、私と子のために、兄の罪のお許しを頂けると思ったからで御座います。お許しは頂けないと知りました。罪は私に御座います。どうして自ら捕われましょうか。自ら命を断つのみで御座います。私が死んでも天皇の御恩を忘れることは御座いません。どうか私が司っていた後宮の事は、好い相手にお授け頂ければ幸いに存じます。丹波国に五人の女がおります。丹波道主王の女 で御座います。後宮の数に入れて頂きたく存じます」と。天皇はこれを許した。
時に火は燃え上がり、城は崩れ、軍勢は悉く逃げた。
狭穂彦と妹は、共に城の中で死んだ。天皇は将軍八綱田の功を誉め、その名を授けて倭日向武日向彦八綱田という。
【日本書紀 巻第六 垂仁天皇五年十月己卯朔条】
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