媛蹈鞴五十鈴媛命
- 名前
- 媛蹈鞴五十鈴媛命【日本書紀】(ひめたたらいすずひめのみこと)
- 姬蹈鞴五十鈴姬命【日本書紀】(ひめたたらいすずひめのみこと)姫蹈鞴五十鈴姫命
- 富登多多良伊須須岐比賣命【古事記】(ほとたたらいすすきひめのみこと)富登多多良伊須須岐比売命
- 比賣多多良伊須氣余理比賣【古事記】(ひめたたらいすけよりひめ)比売多多良伊須気余理比売
- 伊須氣余理比賣【古事記】(いすけよりひめ)伊須気余理比売
- 伊須氣余理比賣命【古事記】(いすけよりひめのみこと)伊須気余理比売命
- 姬蹈韛五十鈴命【先代旧事本紀】(ひめたたらいすずのみこと)姫蹈韛五十鈴命
- 媛蹈鞴五十鈴姬命【先代旧事本紀】(ひめたたらいすずひめのみこと)媛蹈鞴五十鈴姫命
- 媛鞴五十鈴媛命校異【先代旧事本紀】
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 庚申年8月16日)
- 没年月日
- (綏靖天皇元年1月8日 ~ )
- 父
- 母
玉櫛媛 【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年八月戊辰条, 古事記 中巻 神武天皇段】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 出来事
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【先代旧事本紀 巻第四 地祇本紀】
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庚申年8月16日
天皇は正妃を立てるために、改めて貴族の子孫を探した。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年八月戊辰条】
時に人がいて、「事代主神と三島溝橛耳神の女の玉櫛媛が生んだ子を名付けて媛蹈鞴五十鈴媛命といいます。これは容色優れた者です」と奏上した。天皇はこれを喜んだ。-
神武天皇が大后とする美人を探し求める時、大久米命が「ここに
【古事記 中巻 神武天皇段】少女 がおります。これは神の御子といいます。その神の御子というわけは、三島湟咋の女の勢夜陀多良比売は容姿が美しく、美和の大物主神がそれを気に入り、その美人が大便をする時に丹塗 矢と化し、大便をする溝を流れ下って、その美人の陰部を突きました。美人は驚いて走り回り、慌てふためきました。そしてその矢を持って来て、床のそばに置くと、矢は麗しい壮夫となり、その美人を娶りました。そして生まれた子を富登多多良伊須須岐比売命、またの名を比売多多良伊須気余理比売といいます(これは『ほと女性の陰部』という名を嫌って後に名を改めたのである)。それでこれを神の御子というのです」と言った。
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庚申年9月24日
神武天皇に召されて正妃となる。
【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 庚申年九月乙巳条】-
七人の少女が
高佐士野 で遊んでいた。伊須気余理比売もその中にいた。
大久米命はその伊須気余理比売を見ると、歌で天皇に尋ねた。「
夜 麻 登 能 多 加 佐 士 怒 袁 那 那 由 久 袁 登 賣 杼 母 多 禮 袁 志 摩 加 牟 」伊須気余理比売は少女達の先頭に立っていた。
天皇はその少女達を見て、伊須気余理比売が先頭に立っていることを知り、歌で答えた。「
加 都 賀 都 母 伊 夜 佐 岐 陀 弖 流 延 袁 斯 麻 加 牟 」大久米命は天皇の言葉を使って伊須気余理比売に詔した。
すると大久米命の入れ墨をした鋭い目を見て不思議に思い、歌った。「
阿 米 都 都 知 杼 理 麻 斯 登 登 那 杼 佐 祁 流 斗 米 」大久米命は歌で答えた。
「
袁 登 賣 爾 多 陀 爾 阿 波 牟 登 和 加 佐 祁 流 斗 米 」こうしてその少女は「お仕え致しましょう」と言った。
その伊須気余理比売命の家は狭井 河のほとりにあり、天皇は伊須気余理比売のもとに出かけて一晩休んだ。佐韋河 というわけは、その河辺に山百合が多くあり、その山百合の名から佐韋河と名付けた。山百合のもとの名は佐韋である。
後にその伊須気余理比売が宮中に参内した時に、天皇は御歌を歌った。「
【古事記 中巻 神武天皇段】阿 斯 波 良 能 志 祁 志 岐 袁 夜 邇 須 賀 多 多 美 伊 夜 佐 夜 斯 岐 弖 和 賀 布 多 理 泥 斯 」
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神武天皇元年1月1日
神武天皇の皇后となる。
【日本書紀 巻第三 神武天皇元年正月庚辰朔条】 -
神武天皇76年3月11日
神武天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第三 神武天皇七十六年三月甲辰条】 - ・・・
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綏靖天皇元年1月8日
神渟名川耳尊の即位に伴い皇太后となる。
【日本書紀 巻第四 綏靖天皇元年正月己卯条】
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