佐利遅
- 名前
- 佐利遲【日本書紀】(さりじ, さりぢ)佐利遅
- 生年月日
- ( ~ 529年4月30日)
- 没年月日
- (529年4月30日 ~ )
- 出来事
-
529年4月30日
-
529年(4月30日 ~ 5月23日)
継体天皇が任那にいる近江毛野臣に詔して「奏上するところを問いただして、疑い合っているのを和解させよ」と。
毛野臣は
熊川 に宿って『ある書では任那の久斯牟羅(くしむら)に宿ったという』とある。新羅・百済の二国の王を召集した。
新羅王佐利遅は久遅布礼を遣わし『ある書では久礼爾師知于奈師磨里という』とある。、百済は恩率弥騰利を遣わして毛野臣の所に赴かせ、二王が自ら参上することはなかった。
毛野臣は激怒して、二国の使いを責めて言うには「小が大に仕えることは天の道である『ある書では、大木の端には大木を接ぎ、小木の端には小木を接ぐと言ったという』とある。。なぜ二国の王は自ら参集して天皇の勅を承らず、無礼にも使者を遣すのか。もうお前の王が自ら参って勅を承ろうとも、私は勅を伝えずに必ず追い返すであろう」と。
久遅布礼・恩率弥騰利は心に恐怖を抱き、各々帰国して王を呼び寄せた。これにより新羅は改めて上臣『新羅では大臣を上臣とする』とある。伊叱夫礼智干岐を遣わし『ある書では伊叱夫礼知奈末という』とある。、兵三千を率いて来て勅を聞きたいと言ってきた。
毛野臣は遥に武器を備えた数千人の兵を見て、熊川から任那の己叱己利城 に入った。伊叱夫礼智干岐は
多多羅原 に宿り、敢えて帰国せずに待つこと三月。
頻りに勅を聞きたいと言ってきたが、ついに伝えることはなかった。
伊叱夫礼智が率いた兵士たちは村落で乞食した。毛野臣の従者の河内馬飼首御狩が立ち寄った。
御狩は他人の門に入って隠れ、乞者が過ぎるのを待ち、腕を捲って遠くから殴る真似をした。
乞者が見て言うには「謹んで三月待ち、ただ勅旨を承ろうと望んだが、一向にお伝え頂けない。勅を承る使者を悩ますということは、騙し欺いて上臣を殺そうとしているのか」と。
そして有様を上臣に詳しく報告した。
上臣は四村を掠め取り(金官 。背伐 校異:背戊。安多 。委陀 。これを四村とする『ある書では多多羅(たたら)・須那羅(すなら)・和多(わた)・費智(ほち)を四村とするという』とある。和多の校異に知多。)、人々を率いて本国に入った。あるいは多多羅などの四村が掠め取られたのは、毛野臣の過ちであるという。
【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月是月条】
-