継体天皇

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名前
  • 漢風諡号:繼體天皇(けいたいてんのう, けいたいてんわう)継体天皇
  • 和風諡号:男大迹天皇【日本書紀】(おおどのすめらみこと, をほ, おおおどのすめらみこと, をおほ
  • 男太迹天皇校異【日本書紀】(おおどのすめらみこと, をほ, おおおどのすめらみこと, をおほ
  • 彥太尊【日本書紀】)彦太尊
  • 男大迹王【日本書紀】(おおどのみこ, をほ
  • 袁本杼命【古事記】(おおどのみこと, をほ
  • 乎富等大公王【釈日本紀】(おおどのおおきみ, をほおほ
  • 男太跡天皇【新撰姓氏録抄】(おおどのすめらみこと, をほ
性別
男性
生年月日
允恭天皇39年
没年月日
継体天皇25年2月7日
  • 彦主人王ひこうしのみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀】
  • 振媛ふりひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀】
先祖
  1. 彦主人王
    1. 乎非王
      1. 意富富等王
      2. 中斯知命
    2. 久留比売命
      1. 牟義都伊自牟良
  2. 振媛
    1. 乎波智君
      1. 阿加波智君
    2. 阿那爾比弥
配偶者
  • 皇后:手白香皇女たしらかのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】
  • 妃:目子媛めこひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:稚子媛わくごひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:広媛ひろひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:麻績娘子おみのいらつめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:関媛せきひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:倭媛やまとひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:荑媛はえひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 妃:広媛ひろひめ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 第一皇子:広国排武金日尊ひろくにおしたけかなひのみこと安閑天皇あんかんてんのう【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:目子媛めこひめ
  • 皇子:武小広国排盾尊たけおひろくにおしたてのみこと宣化天皇せんかてんのう【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:目子媛めこひめ
  • 皇子:天国排開広庭尊あめくにおしはらきひろにわのみこと欽明天皇きんめいてんのう【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】【母:手白香皇女たしらかのひめみこ
  • 皇子:大郎皇子おおいらつこのみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:稚子媛わくごひめ
  • 皇女:出雲皇女いずものひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:稚子媛わくごひめ
  • 皇女:神前皇女かんさきのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛ひろひめ
  • 皇女:茨田皇女まんたのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛ひろひめ
  • 皇女:馬来田皇女うまくたのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛ひろひめ
  • 皇女:荳角皇女ささげのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:麻績娘子おみのいらつめ
  • 皇女:茨田大娘皇女まんたのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:関媛せきひめ
  • 皇女:白坂活日姫皇女しらさかのいくひひめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:関媛せきひめ
  • 皇女:小野稚郎皇女おののわかいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:関媛せきひめ
  • 皇女:大娘子皇女おおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛やまとひめ
  • 皇子:椀子皇子まろこのみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛やまとひめ
  • 皇子:耳皇子みみのみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛やまとひめ
  • 皇女:赤姫皇女あかひめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:倭媛やまとひめ
  • 皇女:稚綾姫皇女わかやひめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:荑媛はえひめ
  • 皇女:円娘皇女つぶらのいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:荑媛はえひめ
  • 皇子:厚皇子あつのみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:荑媛はえひめ
  • 皇子:兎皇子うさぎのみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛ひろひめ
  • 皇子:中皇子なかつみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】【母:広媛ひろひめ
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第26代天皇てんのう
出来事
  • 允恭天皇39年【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月丁未条】

    彦主人王の子として生まれる。母は振媛


    天皇の父は振媛の容姿が甚だ端麗であることを聞いて、近江国の高島郡(たかしまのこおり)三尾(みお)の別邸から使いを遣わして三国(みくに)坂中井(さかない)中。此云那。に迎えて召し入れて妃とした。そして天皇が産まれた。

    天皇が幼年の頃に父王は薨じた。
    振媛が嘆いて言うには「私は遠く故郷を離れてしまって孝養することが出来ません。私は高向(たかむこ)高向者。越前國邑名。に帰郷して天皇を奉養します」と。

    天皇は壮年となり、士を愛でて賢を敬い、御心が裕であった。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀】
  • 武烈天皇8年12月8日

    天皇五十七歳継体天皇の当時の年齢。崩御記事の年齢と矛盾しない。ここでは『天皇』を武烈天皇とするのは不自然と考える。のときに小泊瀬天皇武烈天皇が崩じた。
    元より男女無く、後嗣は絶えようとした。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀 武烈天皇八年十二月己亥条】
    • 天皇が崩じ、日続(ひつぎ)を知らすべき王はいなかった。
      それで品太天皇の五世の孫の袁本杼命を近淡海国(ちかつおうみのくに)から上京させ、手白髪命と結婚させて、天下を奉授した。

      【古事記 下巻 武烈天皇段】
  • 武烈天皇8年12月21日

    大伴金村大連が議って言うには「まさに今、後嗣は絶えてしまった。天下は何れに心を繋げようか。古より今に至るまで、禍はこれによって起る。いま足仲彦天皇仲哀天皇の五世孫の倭彦王丹波国(たにわのくに)桑田郡(くわたのこおり)にいらっしゃる。試しに武器を用意して御輿を挟み守ってお迎えして、人主(きみ)としてお立ち頂こう」と。
    大臣・大連らは、皆これに従い、計画どおりに迎えようとした。

    倭彦王は迎えの兵を遠くに見ると、懼然として色を失った。
    そして山谷に逃げて行方知れずとなった。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀 武烈天皇八年十二月壬子条】
  • 継体天皇元年1月4日

    大伴金村大連が更に議って言うには「男大迹王は性格が慈悲深く、孝に順っていらっしゃる。皇位を継承するにふさわしい。慇懃にお勧めして帝業を栄えさせよう」と。
    物部麁鹿火大連許勢男人大臣ら皆が言うには「子孫を詳しく選んでみると、賢者はただ男大迹王のみである」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月甲子条】
  • 継体天皇元年1月6日

    臣・連らを遣わして(しるし)を持たせ、御輿を備えて三国(みくに)に迎えに行かせた。
    兵士で挟み守り、容儀を粛々と整え、先払いしながら到着した。

    男大迹天皇は安らかに落ち着き、いつものように胡床に坐していた。
    陪臣を整列させて、既に帝が坐しているようであった。
    節を持つ使いらは、これにより畏まり、心を傾け、命を委ね、忠誠を尽くすことを願った。
    しかし天皇は心の裏になお疑いがあり、久しく承知しなかった。

    たまたま河内馬飼首荒籠を知っていた。密かに使いを遣わして具に大臣・大連らが迎えようとする本意を伝えた。
    留まること二日三夜。遂に出発することとなった。
    そして嘆いて言うには「よかった、馬飼首よ。お前がもし使いを寄越して知らせてくれなければ、危うく天下に笑われるところであった。世に『貴賤を論うことなかれ。ただその心を重んずべし』と云うのは、荒籠のことをいうのであろう」と。

    皇位を継ぐに至り、厚く荒籠を寵愛した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月丙寅条】
  • 継体天皇元年1月24日

    樟葉宮(くすはのみや)に至る。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月甲申条】
  • 継体天皇元年2月4日

    大伴金村大連は跪いて天子の璽符(みしるし)の鏡・剣を献上して再拝した。
    男大迹天皇が辞退して言うには「民を子として国を治めるは重大な事である。私は不才で上に立つには不足である。願わくは思いを巡らせて賢者を選んでほしい。私では不適当である」と。
    大伴大連は地に伏して強く請願した。
    男大迹天皇は西に向って三度、南に向って二度譲った。
    大伴大連らが言うには「私たちが考えるには、大王が民を子として国を治めることが最適でございます。私たちは宗廟社稷の為に、計りごとを軽々しくは致しません。どうか皆の願いをお聞き入れください」と。
    男大迹天皇が言うには「大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)将相(まえつきみ)・諸々の臣が私を推すのであれば、私も敢えて背くことはしない」と。
    そして璽符を受けた。


    この日、天皇に即位した。

    大伴金村大連大連許勢男人大臣大臣物部麁鹿火大連大連とすることは元の通りであり、これを以って大臣・大連らを各々職位のままに任じた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年二月甲午条】
    • 伊波礼之玉穂宮(いわれのたまほのみや)にて天下を治めた。

      【古事記 下巻 継体天皇段】
    • 継体天皇元年2月4日

      即位に伴い、皇妃振媛か。であれば王妃が正しい。を尊んで皇太夫人媛校異:皇太夫人とする。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇元年二月甲午条】
  • 継体天皇元年2月10日

    大伴大連が奏上して「私が聞くところによりますと、先々の王が世をお治めたまうに、太子が無ければ天下をよくお治めになることは出来ず、後宮に睦びが無ければ後嗣は得られません。このために白髪天皇は後嗣無く、私の祖父大伴大連室屋が命を受けて、国毎に三種の白髪部(しらかべ)を置いて(三種とは、一に白髪部舎人(しらかべのとねり)。二に白髪部供膳(しらかべのかしわで)。三に白髪部靭負(しらかべのゆけい)である)、後世に名を留めようとしました。何と傷ましいことでしょう。どうか手白香皇女を立てて皇后とし、神祇伯らを遣わして神祇を祭り敬い、天皇の御子をお求めになられ、民の望みにお答え頂きたく存じます」と。
    天皇は「よろしい」と言った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年二月庚子条】
  • 継体天皇元年3月1日

    詔して「神祇を祀るには主が無くてはならない。天下には君が無くてはならない。天は人民を生み、元首を立てて助け養うことを司らせ、生命を全うさせる。大連は朕に後嗣が無いことを憂い、国家に世々忠誠を尽くしている。朕の世のことだけではない。礼儀を備えて手白香皇女をお迎えせよ」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月庚申朔条】
  • 継体天皇元年3月5日

    手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修めさせた。
    やがて一男を生んだ。これを天国排開広庭尊という。
    この嫡子は幼年であったため、二人の兄が治めた後に天下を治めた。
    二人の兄とは広国排武金日尊武小広国押盾尊である。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】
  • 継体天皇元年3月9日

    詔して「朕が聞くところによると、男が耕作しなければ、天下はその飢えを受けることがあるという。女が紡績しなければ、天下はその寒を受けるという。それで帝王は自ら耕作して農業を勧め、后妃は自ら養蚕して桑を与える時期を教える。ましてや百寮・万族に至るまで農績を棄ててしまえば富み栄えることは出来ない。司は天下に告げて、朕の思うところを知らしめよ」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月戊辰条】
  • 継体天皇元年3月14日

    八人の妃を召し入れた。
    八人の妃を召し入れることは前後にも例があるが、この癸酉の日に召し入れるということは、即位して良い日を占い選んで、初めて後宮を定めたことによって文に起した。

    元の妃、尾張連草香の女の目子媛は二子を生んだ。皆天下を治めた。
    其の一を勾大兄皇子という。これは広国排武金日尊である。
    其の二を桧隈高田皇子という。これは武小広国排盾尊である。

    次の妃、三尾角折君の妹の稚子媛が生んだのは
    大郎皇子
    出雲皇女

    次に坂田大跨王の女の広媛は三女を生んだ。
    長を神前皇女という。
    仲を茨田皇女という。
    少を馬来田皇女という。

    次に息長真手王の女の麻績娘子が生んだのは
    荳角皇女。これは伊勢大神祠(いせのおおかみのまつり)に侍った。

    次に茨田連小望の女(あるいは妹という)の関媛は三女を生んだ。
    長を茨田大娘皇女という。
    仲を白坂活日姫皇女という。
    少を小野稚郎皇女という。またの名は長石姫

    次に三尾君堅楲の女の倭媛は二男二女を生んだ。
    其の一を大娘子皇女という。
    其の二を椀子皇子という。これは三国公(みくにのきみ)の先祖である。
    其の三を耳皇子という。
    其の四を赤姫皇女という。

    次に和珥臣河内の女の荑媛は一男二女を生んだ。
    其の一を稚綾姫皇女という。
    其の二を円娘皇女という。
    其の三を厚皇子という。

    次に根王の女の広媛は二男を生んだ。
    長を兎皇子という。これは酒人公(さかひとのきみ)の先祖である。
    少を中皇子という。これは坂田公(さかたのきみ)の先祖である。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月癸酉条】
  • 継体天皇2年10月3日

    小泊瀬稚鷦鷯天皇武烈天皇傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬る。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二年十月癸丑条】
    • 継体天皇2年10月3日

      傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬る。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇二年十月癸丑条】
  • 継体天皇2年12月

    南海中の耽羅(たむら)済州島に存在した国。人が初めて百済国に通う。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二年十二月条】
  • 継体天皇3年2月

    使いを百済に遣わす。

    任那(みまな)日本県邑(やまとのあがたのむら)に住む、百済から逃亡してきた者、戸籍から漏れた者の三,四世までさかのぼって調べて、百済に送って戸籍をつけた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇三年二月条】
    • 久羅麻致支弥が日本より来たる。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇三年二月条 百済本記云】
  • 継体天皇5年10月

    山背(やましろ)筒城(つつき)に遷都する。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇五年十月条】
    • 継体天皇5年10月

      山背に遷都する。筒城宮という。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇五年十月条】
  • 継体天皇6年4月6日

    穂積臣押山を百済に遣わして筑紫国の馬四十匹を賜る。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年四月丙寅条】
  • 継体天皇6年12月

    百済が使いを遣わして朝貢した。

    別に上表文を奉って任那国の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あろしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請した。
    哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
    大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
    物部大連麁鹿火を勅使とした。

    物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇応神天皇に授けました。それで大后気長足姫尊神功皇后と大臣武内宿禰が国毎に官家(みやけ)を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
    大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
    その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
    大連は諌めに従った。

    こうして勅使を改めた。
    賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。

    大兄皇子後の安閑天皇。は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
    驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝応神天皇の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
    日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
    使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。

    ここに流言があって「大伴大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済から賄賂を受けている」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】
  • 継体天皇7年6月

    百済が姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わして、穂積臣押山に副えて、五経博士段楊爾を献上した。

    別に奏上して「伴跛国(はへのくに)が我が国の己汶(こもん)の地を略奪しました。伏して願わくは、天恩によって本属に還付して頂きたいと存じます」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年六月条】
  • 継体天皇7年8月26日

    百済の太子淳陀が薨じる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年八月戊申条】
  • 継体天皇7年9月

    勾大兄皇子後の安閑天皇。は自ら春日皇女を迎えた。
    月夜に清らかに語り合い、思わず夜が明けた。
    歌を作る雅な心がすぐに形となり、口ずさんで言うには

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    と。
    妃が答えて歌った。

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    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年九月条】
  • 継体天皇7年11月5日

    朝廷に百済(くだら)姐弥文貴将軍が斯羅(しらき)汶得至安羅(あら)辛已奚賁巴委佐伴跛(はへ)既殿奚竹汶至らを引き連れ、恩勅を受けて己汶(こもん)帯沙(たさ)を百済国に賜った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十一月乙卯条】
  • 継体天皇7年11月

    伴跛国(はへのくに)戢支を遣わして珍宝を献上して己汶(こもん)の地を乞うたが、終ぞ国は賜らなかった。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十一月是月条】
  • 継体天皇7年12月8日

    詔して「朕は天緒(あまつひつぎ)を承け、宗廟を保つことに兢兢業業としている。この頃は天下安静・国内平穏で豊年が続き、頻りに国を富ましてくれる。なんと喜ばしいことか。摩呂古一種の愛称であり、皇子を『まろこ』という例は他にもある。よ。朕の心を八方に示してくれた。なんと盛んなことか。勾大兄が我が教化を万国に照らすこと。日本(やまと)は平和で、名は天下をほしいままにしている。秋津は赫々として誉れは高い。宝とするところは賢であり、善を最も楽しむ。聖化は遠く栄え、大功は長く懸かる。真にお前の力である。春宮にいて朕を助けて仁を施し、私の至らぬところを補ってくれ」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十二月戊子条】
  • 継体天皇8年1月

    太子妃春日皇女は朝遅く出てきて異常なところがあった。
    太子は疑う心があって殿に入って覗いてみた。妃は床に伏して泣いていた。
    悶え苦しんで耐えられない様子だった。
    太子は怪しんで「今朝泣いていたが、何の恨みがあるのか」と問うた。
    妃が言うには「他ではございません。私が悲しむのは、飛ぶ鳥も子を育てるために木の末に巣を作ります。その愛情が深いからでございます。地を這う虫も子を守るために土の中に穴を掘ります。その守りを厚くします。ましてや人に至れば、どうして考えないで居られましょうか。後継ぎが無い恨みは太子に集まります。私の名も従って絶えてしまうでしょう」と。
    太子は心を痛めて天皇に奏上した。

    詔して「朕の子麻呂古一種の愛称であり、皇子を『まろこ』という例は他にもある。。お前の妃の言葉は深く理に適っている。そんなことはどうでもいいと答えて、慰めることが無くてよいのか。匝布屯倉(さほのみやけ)を賜わり、妃の名を万世に表しなさい」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇八年正月条】
  • 継体天皇8年3月

    伴跛(はへ)が城を子呑(しとん)帯沙(たさ)に築いて満奚(まんけい)に連ね、烽候(とぶひ)『とぶひ』はのろし。『烽候』はのろしを上げるところ。邸閣()兵量を置く倉庫。を置いて日本に備えた。
    また城を爾列比(にれひ)麻須比(ますひ)に築いて麻且奚(ましょけい)推封(すいふ)に渡した。
    士卒・兵器を集めて新羅を攻めた。
    子女を奪い、村邑を侵掠した。
    凶賊が襲撃した所に物が残ることは稀であった。
    暴虐をほしいままにして民を悩ませた。
    殺害すること甚だ多く、詳しく載せることはできない。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇八年三月条】
  • 継体天皇9年2月4日

    百済の使者文貴将軍らが帰国を希望した。
    それで勅して物部連『闕名』とあるが、『百済本記云。物部至至連』とある。を副えて帰国させた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月丁丑条】
  • 継体天皇9年2月(4日 ~ 30日)

    沙都島(さとせま)巨済島に至る。
    伝え聞くところによると、伴跛(はへ)の人は恨みを抱き、悪事を図り、力を恃みに邪なことをほしいままにした。
    それで物部連は水軍五百を率いて直ちに帯沙江(たさのえ)に赴いた。
    文貴将軍は新羅を通って帰国した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月是月条】
  • 継体天皇9年4月

    物部連帯沙江(たさのえ)に六日間留まった。
    伴跛は兵を起こして攻めてきた。衣類を剥ぎ取り、持物を奪い、全ての帷幕を焼いた。
    物部連らは恐怖して逃遁した。
    命からがら汶慕羅(もんもら)に辿り着いた。汶慕羅は島の名である。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年四月条】
  • 継体天皇10年5月

    百済が前部木刕不麻甲背を遣わして、物部連らを己汶(こもん)で迎えて労い、国に引き入れた。
    群臣はそれぞれ衣裳・斧鉄・帛布を出し、国の産物に加えて朝廷に積み置いた。
    慰問は慇懃で賞禄は優れていた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年五月条】
  • 継体天皇10年9月

    百済が州利即次将軍を遣わして、物部連に副えて渡来させ、己汶(こもん)の地を賜わったことを感謝した。

    別に五経博士漢高安茂を献上して、博士段楊爾の代わりとしたいと願い出たので、願いのままに代えさせた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年九月条】
  • 百済が灼莫古将軍・日本(やまと)斯那奴阿比多を遣わして、高麗の使い安定らに副えて来朝させ、好みを結んだ。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年九月戊寅条】
  • 継体天皇12年3月9日

    弟国(おとくに)に遷都する。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十二年三月甲子条】
  • 継体天皇17年5月

    百済国王武寧が薨じる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十七年五月条】
  • 継体天皇18年1月

    百済太子が即位する。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇十八年正月条】
  • 継体天皇20年9月13日

    磐余玉穂(いわれのたまほ)に遷都する。
    ある書では七年継体天皇7年という。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十年九月己酉条】
  • 継体天皇21年6月3日

    近江毛野臣が兵六万を率いて任那(みまな)に往き、新羅(しらき)に破られた南加羅(から)喙己呑(とくことん)を復興させて任那に合わせようとした。

    筑紫国造磐井は密かに叛逆を図るも実行せずに年を経た。
    事の成り難いことを恐れて常に隙を伺っていた。
    新羅はこれを知り、密かに賂を磐井の所に贈って毛野臣の軍を防がせた。

    磐井火国(ひのくに)豊国(とよのくに)の二国に勢力を張って職務を行わなかった。
    外は海路を遮って高麗・百済・新羅・任那らの国の年貢を積んだ船を欺き、内は任那に遣わされた毛野臣の軍を遮り、みだりに言挙げして「今は使者となっているが、昔は我が友として肩肘擦り合わせて同じ釜の飯を食べた。にわかに使者となって私をお前に従わせる事ができようか」と。
    そして交戦して従わず、驕って自らを誇った。
    毛野臣は遮られて中途で停滞した。

    天皇が大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに詔して「筑紫磐井が背いて西戎の地を我が物としている。誰を将とするのが良いか」と。
    大伴大連らが言うには「正直で仁・勇に勝れ、兵事に通じること麁鹿火の右に出る者はおりません」と。
    天皇は「ゆるす」と言った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十一年六月甲午条】
  • 継体天皇21年8月1日

    詔して「大連よ。磐井が従おうとしない。お前が行って征伐せよ」と。
    物部麁鹿火大連が再拝して言うには「磐井は西戎の奸賊でございます。川の険しさをたよりにして仕え奉らず、山の険しさをたよりにして乱を起こしました。道徳に背き、侮り驕って自分を賢いと思っております。昔道臣より室屋に至るまで共に大伴氏の先祖だが、物部氏である麁鹿火の言葉としては不自然か。帝を助けて戦いました。民の難儀を救うことは、今も昔も変わりません。ただ天の助けを得ることは、私が常に重んじることでございます。よく慎んで討ちましょう」と。
    詔して「良将の軍は恩を施し、恵を推し、己を慮って人を治める。攻めること河を割くが如し、戦うこと風の発つが如し」と。
    重ねて詔して「大将は民の命を預かる。社稷の存亡はここにある。努めよ。慎んで天罰を与えよ」と。
    天皇は自ら斧鉞(まさかり)を取り、大連に授けて言うには「長門より東は朕が制する。筑紫より西はお前が制せよ。賞罰は思うままに行ってよい。一々奏上することはない」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十一年八月辛卯朔条】
  • 継体天皇22年11月11日

    大将軍物部大連麁鹿火は賊の首領磐井と筑紫の御井郡(みいのこおり)で交戦した。
    旗鼓は向き合い、埃塵入り乱れ、機を両陣の間に定めて万死の地を譲らなかった。

    遂に磐井を斬って境を定めた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十二年十一月甲子条】
  • 継体天皇22年12月

    筑紫君葛子は父に連座して誅されることを恐れ、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して死罪を免れることを請うた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十二年十二月条】
  • 継体天皇23年3月

    百済王下哆唎国守(あるしたりのくにのみこともち)穂積押山臣に言うには「朝貢の使者が岬を出るときに、いつも風波に苦しみます。それで貢物を濡らしてしまい、損壊してしまうのです。どうか加羅(から)多沙津(たさつ)を私の朝貢する海路として頂けないでしょうか」と。
    押山臣はこの願いを聞いて奏上した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月条】
  • 継体天皇23年3月

    物部伊勢連父根吉士老らを遣わして多沙津百済王に賜わった。

    加羅王が勅使に言うには「この津は官家を置いて以来、私が朝貢するときの寄港地としております。どうしてたやすく隣国に賜わられるのでしょうか。始めに与えられた地と違います」と。
    勅使の父根らはこれによって下賜が難しいとして大島に退いた。
    別に録史(ふびと)を遣わして、果して扶余(くだら)に遣わした。
    これにより加羅は新羅と結んで日本を怨むようになった。

    加羅王は新羅王の女を娶って子が生まれた。
    新羅がはじめ女を送るときに百人を遣わして女の従者とした。これを諸県に分散させて受け入れて新羅の衣冠を着けさせた。
    阿利斯等はその服を変えさせたことに憤り、使いを遣わして送り返した。
    新羅は面目を失い、女を戻そうとして言うには「そちらの話を受けて私は結婚を許したのだ。このようになるなら王女を返してもらおう」と。
    加羅の己富利知伽『未詳』とある。は答えて「夫婦として合わせて今更どうやって離れることが出来ようか。また子もあり、これを棄ててどこに行けるものか」と。

    遂に新羅は刀伽(とか)古跛(こへ)布那牟羅(ふなむら)の三城を取り、また北の境の五城を取った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月是月条 第一】
  • 継体天皇23年3月

    近江毛野臣安羅(あら)に遣わした。
    勅して新羅に勧めて、更に南加羅(ありひしのから)喙己呑(とくことん)を建てた。

    百済は将軍君(いくさのきみ)尹貴麻那甲背麻鹵らを遣わし、安羅に行って詔勅を聴かせた。

    新羅は隣国の官家を破ったことを恐れて高貴な人を遣わさずに夫智奈麻礼奈麻礼らを遣わし、安羅に行って詔勅を聴かせた。

    安羅は新たに高堂を建てて勅使を上らせた。国主は後に従って階を上った。国内の大臣で昇殿したのは一、二人だった。
    百済の使い・将軍君らは堂下にあった。
    数ヶ月間、再三堂上で謀議を行ったが、将軍君らは常に堂下にあることを恨んだ。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月是月条 第二】
  • 継体天皇23年4月7日

    任那王己能末多干岐『己能末多というのは、おそらく阿利斯等であろう』とある。が来朝して大伴大連金村に言うには「海外の諸国に胎中天皇が官家を置かれて、本土を棄てさせずにその地に封じられたのは良いことでした。いま新羅は元より賜わる封地の限りを違えて、しばしば越境して侵攻してきます。願わくは天皇に奏上して我が国をお救い頂きたい」と。
    大伴大連は乞われるままに奏上した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月戊子条】
  • 継体天皇23年(4月7日 ~ 7月)

    使いを遣わして己能末多干岐を送った。
    併せて任那にいる近江毛野臣に詔して「奏上するところを問いただして、疑い合っているのを和解させよ」と。

    毛野臣熊川(くまなれ)に宿って『ある書では任那の久斯牟羅(くしむら)に宿ったという』とある。新羅百済の二国の王を召集した。
    新羅王佐利遅久遅布礼を遣わし『ある書では久礼爾師知于奈師磨里という』とある。、百済は恩率弥騰利を遣わして毛野臣の所に赴かせ、二王が自ら参上することはなかった。
    毛野臣は激怒して、二国の使いを責めて言うには「小が大に仕えることは天の道である『ある書では、大木の端には大木を接ぎ、小木の端には小木を接ぐと言ったという』とある。。なぜ二国の王は自ら参集して天皇の勅を承らず、無礼にも使者を遣すのか。もうお前の王が自ら参って勅を承ろうとも、私は勅を伝えずに必ず追い返すであろう」と。
    久遅布礼恩率弥騰利は心に恐怖を抱き、各々帰国して王を呼び寄せた。

    これにより新羅は改めて上臣『新羅では大臣を上臣とする』とある。伊叱夫礼智干岐を遣わし『ある書では伊叱夫礼知奈末という』とある。、兵三千を率いて来て勅を聞きたいと言ってきた。
    毛野臣は遥に武器を備えた数千人の兵を見て、熊川から任那の己叱己利城(こしこりのさし)に入った。

    伊叱夫礼智干岐多多羅原(たたらのはら)に宿り、敢えて帰国せずに待つこと三月。
    頻りに勅を聞きたいと言ってきたが、ついに伝えることはなかった。
    伊叱夫礼智が率いた兵士たちは村落で乞食した。毛野臣の従者の河内馬飼首御狩が立ち寄った。
    御狩は他人の門に入って隠れ、乞者が過ぎるのを待ち、腕を捲って遠くから殴る真似をした。
    乞者が見て言うには「謹んで三月待ち、ただ勅旨を承ろうと望んだが、一向にお伝え頂けない。勅を承る使者を悩ますということは、騙し欺いて上臣を殺そうとしているのか」と。
    そして有様を上臣に詳しく報告した。
    上臣は四村を掠め取り(金官(きんかん)背伐(はいばつ)校異:背戊安多(あた)委陀(わだ)これを四村とする『ある書では多多羅(たたら)・須那羅(すなら)・和多(わた)・費智(ほち)を四村とするという』とある。和多の校異に知多。)、人々を率いて本国に入った。

    あるいは多多羅などの四村が掠め取られたのは、毛野臣の過ちであるという。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月是月条】
  • 継体天皇23年9月

    巨勢男人大臣が薨じる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年九月条】
  • 継体天皇24年2月1日

    詔して「磐余彦之帝水間城之王以来、博識な臣の明哲な補佐を頼りにしてきた。それで道臣は計りごとを陳べ、神日本(かんやまと)が用いて栄えさせた。大彦は計りごとを陳べ、胆瓊殖(いにえ)が用いて栄えさせた。継体之君(ひつぎのきみ)となり、中興の功を立てようとするには、賢哲の謀議に頼らなければならない。小泊瀬天皇が天下を治められてより、幸いにも先の聖を受けて太平な日々は長かったが、人民は段々と眠ったようになり、政も段々と衰えて改まることもなくなった。ただ然るべき人が仲間の協力で進み出ることを待つばかりである。深謀ある者は短所を問わず、才能ある者は失敗を誹謗しない。そうして宗廟を護り、社稷を危ぶめることはしない。これを考えるに優秀な補佐が必要である。朕が帝業を承けて今で二十四年。天下は大平で内外に憂いはない。土地も肥えて穀物の実りもよい。密かに恐れるのは人民がこれに慣れて驕ることである。廉節な士を推挙させ、大道を宣揚し、鴻化を流布し、才ある官吏を用いることは古来より難しいとする。朕の世に至っても慎まなければならない」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年二月丁未朔条】
  • 継体天皇24年9月

    任那の使いが奏上して「毛野臣は遂に久斯牟羅(くしむら)に邸宅を造って留まり住むこと二年『一本云。三歳者連違去来歳数也』とあり、『ある本に云う三年とするのは誤りである』の意。校異に『違』を『連』とするものがある。この場合は『往来の年を合わせて数えた』の意。。政を怠けております。日本人と任那人との間に生まれた子の帰属についての争いは判決が難しく、そもそも判断する能力もございません。毛野臣は好んで誓湯(うけいゆ)盟神探湯(くかたち)ともいう。熱湯に手を入れて火傷の有無で正邪を判断すること。させて『真実なら爛れず、虚偽なら必ず爛れる』と言い、熱湯に投げ入れられて爛れ死ぬ者が多いのでございます。また吉備韓子(きびのからこ)『大日本人が隣国の女を娶って生まれた子を韓子というのである』とある。那多利斯布利を殺し、常に人民を悩ませて融和することはございません」と。

    天皇はその状況を聞き、人を遣わして呼び寄せた。
    しかし来ることはなく、そっと河内母樹馬飼首御狩(みやこ)に上らせ、奏上して「勅旨を成さずに京郷(みやこ)に戻れば、期待されてやってきたのに虚しく帰ることになります。面目ない気持ちをどうにもできません。伏して願います。陛下、国命を成し、入朝し謝罪するまでお待ち頂きたいと存じます」と。

    奉使の後、また自ら謀って言うには「調吉士皇華(みやこ)の使いである。もし私より先に帰って、あるがままに報告すれば、私の罪は必ず重くなってしまう」と。
    それで調吉士を遣わし、兵を率いさせて伊斯枳牟羅城(いしきむらのさし)を守らせた。

    阿利斯等は小さく煩わしい事をして任務を実行しないことを知り、頻りに帰朝を勧めた。しかし聞き入れることはなかった。
    これによりすっかり行状を知って離反の心が生まれ、久礼斯己母を新羅に遣わして兵を求め、奴須久利を百済に遣わして兵を求めた。

    毛野臣は百済の兵が来ることを聞いて背評(へこおり)に迎え討った。背評は地名であり、またの名は能備己富里(のびこおり)という。
    死傷者は半ばに達した。
    百済は奴須久利を捕えて手枷・足枷・首鏁をつけ、新羅と共に城を囲んだ。
    阿利斯等を責め罵り、「毛野臣を出しなさい」と言った。
    毛野臣は城に拠り防備を固めた。虜には出来なかった。
    二国はその地に滞在して一月となった。
    城を築いて帰還した。名付けて久礼牟羅城(くれむらのさし)という。
    帰還する時に道すがら、騰利枳牟羅(とりきむら)布那牟羅(ふなむれ)牟雌枳牟羅(むしきむら)阿夫羅(あぶら)久知波多枳(くちはたき)の五城を抜いた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年九月条】
  • 継体天皇24年10月

    調吉士が任那からやってきて奏上して「毛野臣は人となりが拗けており、政治に習熟しておりません。和解せずに加羅(から)を掻き乱し、自分勝手で外患を防ぐことをしません」と。
    それで目頬子を遣わして徴召した。
    目頬子は未だ詳らかではない。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年十月条】
  • 継体天皇24年(10月 ~ 12月)

    毛野臣は徴召されて対馬に至り、病にかかって死んだ。
    送葬するときに河筋に従って近江に入った。その妻が歌を詠んだ。

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    目頬子が初めて任那に至る時に、そこに住む人々が歌を贈った。

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    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年是歳条】
  • 継体天皇25年2月

    病が重くなる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月条】
  • 継体天皇25年2月7日

    磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)で崩じる。
    時に年八十二。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月丁未条】
    • ある本に云うには、天皇は二十八年甲寅534年に崩じたという。
      それをここに二十五年辛亥531年に崩じたというのは、百済本記によって記事としたからである。継体天皇二十五年二月丁未条の元ネタ。
      その文に云うには「大歳辛亥三月。進軍して安羅(あら)に至り、乞乇城(こつとくのさし)を造った。この月に高麗はその王安臧王。高句麗第22代の王。を殺した。また聞くところによると、日本の天皇は崩じ、太子・皇子も薨じた」と。
      これによれば辛亥の歳は二十五年に当たる。
      後に勘校する者が明かにするだろう。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年十二月庚子条 或本云】
    • 継体天皇25年2月7日

      天皇は大兄を立てて天皇とした。

      その日に天皇は崩じた。

      【日本書紀 巻第十八 安閑天皇即位前紀 継体天皇二十五年二月丁未条】
    • 継体天皇21年4月9日

      天皇の御年は四十三歳。
      丁未年四月九日に崩じた。

      【古事記 下巻 継体天皇段】
  • 継体天皇25年12月5日

    藍野陵(あいののみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年十二月庚子条】
    • 御陵は三島之藍御陵(みしまのあいのみささぎ)である。

      【古事記 下巻 継体天皇段】