陽原王

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名前
  • 陽原王(ようげんおう)
  • 陽香【日本書紀】(ようこう, やうかう)
性別
男性
先祖
  1. 安原王
  2. unknown
出来事
  • ・・・
    • (545年1月28日 ~ 546年2月15日)

      高麗(こま)が大いに乱れて誅殺される者が多かった。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年是歳条】
    • 十二月甲午に高麗国(こまのくに)細群麁群が宮廷で戦った。鼓を打って戦った。
      細群が敗れて兵を解かないこと三日。ことごとく細群の子孫は捕えられて誅殺された。

      戊戌に狛国(こまのくに)高麗国に同じ。高句麗。香岡上王が薨じた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年是歳条 百済本記云】
    • (546年2月16日 ~ 547年2月5日)

      高麗(こま)が大いに乱れた。およそ戦死者は二千余。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年是歳条】
    • 高麗は正月の丙午を以って中夫人の子を立てて王とした。年八歳。
      狛王に三人の夫人あり。
      正夫人には子が無かった。
      中夫人は世子を生んだ。その舅氏(しゅうと)外戚。麁群である。
      小夫人も子を生んだ。その舅氏が細群である。
      狛王が重病になると、細群麁群はそれぞれその夫人の子を立てようとした。それで細群の死者二千余人となった。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年是歳条 百済本記云】
  • ・・・
    • 553年11月11日

      百済の王子余昌「明の王子、威徳王である」とある。は国内全ての兵を発して高麗(こま)国に向った。
      百合野塞(ゆりののそこ)を築いて兵士と寝食を共にした。
      夕方に遥に見渡すと、大野は肥え、平原は広くのび、人跡はまれに見えて犬の声を聞くこともない。
      にわかに鼓笛の音が聞こえた。
      余昌は大いに驚き、鼓を打って応えた。
      夜通し固く守り、薄明るくなってから広野の中を見ると、青山が覆うように旗が充満していた。

      明けがた頸鎧(あかのへのよろい)頸部を守る鎧状の防具。を着けた者が一騎、(くすび)軍中で用いる小さな銅鑼。を挿した者が二騎、豹尾(なかつかみのお)を挿した者が二騎、合わせて五騎が轡を並べてやってきて、尋ねて言うには「部下たちが『我が野の中に客人がいます』と言っております。お迎えしないわけにはいきません。願わくは礼を以って応答される人の姓名・年・位を知りたいと思います」と。
      余昌は答えて「姓は同姓高麗国王の姓に同じの意か。諸書では百済王室は高麗(高句麗)またはその祖である扶余(夫余)から出たとする。。位は杆率。年は二十九」と。
      百済が反対に尋ねると、また前の法のように答えた。

      遂に旗を立てて合戦となった。

      百済は鉾で高麗の勇士を馬から刺し落して斬首した。
      そして鉾の先に頭を刺し挙げて皆に示した。
      高麗の軍将は憤怒すること甚だしかった。
      この時の百済の歓声は天地を裂くほどであった。
      またその副将は鼓を打って激しく戦い、高麗王を東聖山の上に追い退けた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】
  • ・・・
    • 562年(9月14日 ~ 10月13日)

      欽明天皇は大将軍大伴連狭手彦を遣わし兵数万を率いさせて高麗(こま)を討たせた。
      狭手彦は百済の計を用いて高麗を打ち破った。
      その王は垣を越えて逃げた。
      狭手彦は遂に勝ちに乗じて宮に入り、全ての珍宝・金品・七織帳(ななえのおりもののとばり)鉄屋(くろがねのいえ)共に未詳。「旧い本に云うには、鉄屋は高麗の西の高楼の上に在り、織帳は高麗王の内寝(おおとのに)に張ってあったという」とある。また「鉄屋は長安寺に在る。この寺は何れの国に在るかは知らない」とある。を得て帰還した。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条】
    • 十一年、大伴狭手彦連は百済国と共に、高麗王陽香を比津留都(ひつるつ)に退却させた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条 一本云】