近江毛野

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名前
  • 氏(ウジ):近江【日本書紀】(おうみ, あふ
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 名:毛野【日本書紀】な,
生年月日
( ~ 継体天皇21年6月3日)
没年月日
継体天皇24年(10月 ~ 12月)
出来事
  • 継体天皇21年6月3日

    近江毛野臣が兵六万を率いて任那(みまな)に往き、新羅(しらき)に破られた南加羅(から)喙己呑(とくことん)を復興させて任那に合わせようとした。

    筑紫国造磐井は密かに叛逆を図るも実行せずに年を経た。
    事の成り難いことを恐れて常に隙を伺っていた。
    新羅はこれを知り、密かに賂を磐井の所に贈って毛野臣の軍を防がせた。

    磐井火国(ひのくに)豊国(とよのくに)の二国に勢力を張って職務を行わなかった。
    外は海路を遮って高麗・百済・新羅・任那らの国の年貢を積んだ船を欺き、内は任那に遣わされた毛野臣の軍を遮り、みだりに言挙げして「今は使者となっているが、昔は我が友として肩肘擦り合わせて同じ釜の飯を食べた。にわかに使者となって私をお前に従わせる事ができようか」と。
    そして交戦して従わず、驕って自らを誇った。
    毛野臣は遮られて中途で停滞した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十一年六月甲午条】
  • 継体天皇23年3月

    継体天皇が近江毛野臣を安羅(あら)に遣わした。
    勅して新羅に勧めて、更に南加羅(ありひしのから)喙己呑(とくことん)を建てた。

    百済は将軍君(いくさのきみ)尹貴麻那甲背麻鹵らを遣わし、安羅に行って詔勅を聴かせた。

    新羅は隣国の官家を破ったことを恐れて高貴な人を遣わさずに夫智奈麻礼奚奈麻礼らを遣わし、安羅に行って詔勅を聴かせた。

    安羅は新たに高堂を建てて勅使を上らせた。国主は後に従って階を上った。国内の大臣で昇殿したのは一、二人だった。
    百済の使い・将軍君らは堂下にあった。
    数ヶ月間、再三堂上で謀議を行ったが、将軍君らは常に堂下にあることを恨んだ。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年三月是月条 第二】
  • 継体天皇23年(4月7日 ~ 7月)

    継体天皇が任那にいる近江毛野臣に詔して「奏上するところを問いただして、疑い合っているのを和解させよ」と。

    毛野臣は熊川(くまなれ)に宿って『ある書では任那の久斯牟羅(くしむら)に宿ったという』とある。新羅百済の二国の王を召集した。
    新羅王佐利遅久遅布礼を遣わし『ある書では久礼爾師知于奈師磨里という』とある。、百済は恩率弥騰利を遣わして毛野臣の所に赴かせ、二王が自ら参上することはなかった。
    毛野臣は激怒して、二国の使いを責めて言うには「小が大に仕えることは天の道である『ある書では、大木の端には大木を接ぎ、小木の端には小木を接ぐと言ったという』とある。。なぜ二国の王は自ら参集して天皇の勅を承らず、無礼にも使者を遣すのか。もうお前の王が自ら参って勅を承ろうとも、私は勅を伝えずに必ず追い返すであろう」と。
    久遅布礼恩率弥騰利は心に恐怖を抱き、各々帰国して王を呼び寄せた。

    これにより新羅は改めて上臣『新羅では大臣を上臣とする』とある。伊叱夫礼智干岐を遣わし『ある書では伊叱夫礼知奈末という』とある。、兵三千を率いて来て勅を聞きたいと言ってきた。
    毛野臣は遥に武器を備えた数千人の兵を見て、熊川から任那の己叱己利城(こしこりのさし)に入った。

    伊叱夫礼智干岐多多羅原(たたらのはら)に宿り、敢えて帰国せずに待つこと三月。
    頻りに勅を聞きたいと言ってきたが、ついに伝えることはなかった。
    伊叱夫礼智が率いた兵士たちは村落で乞食した。毛野臣の従者の河内馬飼首御狩が立ち寄った。
    御狩は他人の門に入って隠れ、乞者が過ぎるのを待ち、腕を捲って遠くから殴る真似をした。
    乞者が見て言うには「謹んで三月待ち、ただ勅旨を承ろうと望んだが、一向にお伝え頂けない。勅を承る使者を悩ますということは、騙し欺いて上臣を殺そうとしているのか」と。
    そして有様を上臣に詳しく報告した。
    上臣は四村を掠め取り(金官(きんかん)背伐(はいばつ)校異:背戊安多(あた)委陀(わだ)これを四村とする『ある書では多多羅(たたら)・須那羅(すなら)・和多(わた)・費智(ほち)を四村とするという』とある。和多の校異に知多。)、人々を率いて本国に入った。

    あるいは多多羅などの四村が掠め取られたのは、毛野臣の過ちであるという。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月是月条】
  • 継体天皇24年9月

    任那の使いが奏上して「毛野臣は遂に久斯牟羅(くしむら)に邸宅を造って留まり住むこと二年『一本云。三歳者連違去来歳数也』とあり、『ある本に云う三年とするのは誤りである』の意。校異に『違』を『連』とするものがある。この場合は『往来の年を合わせて数えた』の意。。政を怠けております。日本人と任那人との間に生まれた子の帰属についての争いは判決が難しく、そもそも判断する能力もございません。毛野臣は好んで誓湯(うけいゆ)盟神探湯(くかたち)ともいう。熱湯に手を入れて火傷の有無で正邪を判断すること。させて『真実なら爛れず、虚偽なら必ず爛れる』と言い、熱湯に投げ入れられて爛れ死ぬ者が多いのでございます。また吉備韓子(きびのからこ)『大日本人が隣国の女を娶って生まれた子を韓子というのである』とある。那多利斯布利を殺し、常に人民を悩ませて融和することはございません」と。

    天皇はその状況を聞き、人を遣わして呼び寄せた。
    しかし来ることはなく、そっと河内母樹馬飼首御狩(みやこ)に上らせ、奏上して「勅旨を成さずに京郷(みやこ)に戻れば、期待されてやってきたのに虚しく帰ることになります。面目ない気持ちをどうにもできません。伏して願います。陛下、国命を成し、入朝し謝罪するまでお待ち頂きたいと存じます」と。

    奉使の後、また自ら謀って言うには「調吉士皇華(みやこ)の使いである。もし私より先に帰って、あるがままに報告すれば、私の罪は必ず重くなってしまう」と。
    それで調吉士を遣わし、兵を率いさせて伊斯枳牟羅城(いしきむらのさし)を守らせた。

    阿利斯等は小さく煩わしい事をして任務を実行しないことを知り、頻りに帰朝を勧めた。しかし聞き入れることはなかった。
    これによりすっかり行状を知って離反の心が生まれ、久礼斯己母を新羅に遣わして兵を求め、奴須久利を百済に遣わして兵を求めた。

    毛野臣は百済の兵が来ることを聞いて背評(へこおり)に迎え討った。背評は地名であり、またの名は能備己富里(のびこおり)という。
    死傷者は半ばに達した。
    百済は奴須久利を捕えて手枷・足枷・首鏁をつけ、新羅と共に城を囲んだ。
    阿利斯等を責め罵り、「毛野臣を出しなさい」と言った。
    毛野臣は城に拠り防備を固めた。虜には出来なかった。
    二国はその地に滞在して一月となった。
    城を築いて帰還した。名付けて久礼牟羅城(くれむらのさし)という。
    帰還する時に道すがら、騰利枳牟羅(とりきむら)布那牟羅(ふなむれ)牟雌枳牟羅(むしきむら)阿夫羅(あぶら)久知波多枳(くちはたき)の五城を抜いた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年九月条】
  • 継体天皇24年(10月 ~ 12月)

    毛野臣は徴召されて対馬に至り、病にかかって死んだ。

    送葬するときに河筋に従って近江に入った。その妻が歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十四年是歳条】