聖徳太子

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名前
  • 聖徳太子(しょうとくたいし)
  • 東宮聖德【日本書紀】(ひつぎのみこしょうとく, しゃうとく)東宮聖徳
  • 廐戶皇子【日本書紀】(うまや)厩戸皇子
  • 豐耳聰聖德【日本書紀】(とよみみとのしょうとく, しゃうとく)豊耳聡聖徳
  • 豐聰耳法大王【日本書紀】(とよとみみののりのおおきみ, おほ)豊聡耳法大王
  • 法主王【日本書紀】うし
  • 廐戶豐聰耳皇子【日本書紀】(うまや)厩戸豊聡耳皇子
  • 上宮廐戶豐聰耳太子【日本書紀】(かうまや)上宮厩戸豊聡耳太子
  • 上宮之廐戶豐聰耳命【古事記】(かうまや)上宮之厩戸豊聡耳命
  • 上宮太子【日本書紀】(か
  • 上宮皇太子【日本書紀】(か
  • 廐戶豐聰耳皇子命【日本書紀】(うまや)厩戸豊聡耳皇子命
  • 上宮豐聰耳皇子【日本書紀】(か)上宮豊聡耳皇子
  • 豐聰耳尊【日本書紀】)豊聡耳尊
  • 聖王【法隆寺金堂薬師如来像光背銘,上宮聖徳法王帝説】じり
  • 上宮法皇【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】(か
  • 上宮法王【上宮聖徳法王帝説】(か
  • 廐戶豐聰耳聖德法王【上宮聖徳法王帝説】(うまやとのとよさとみみのしょうとくののりのみこ, うまやしゃうとく)厩戸豊聡耳聖徳法王
  • 聖德法王【上宮聖徳法王帝説】(しょうとくののりのみこ, しゃうとく)聖徳法王
  • 上宮廐戶豐聰耳命【上宮聖徳法王帝説】(かうまや)上宮厩戸豊聡耳命
  • 上宮王【上宮聖徳法王帝説】(か
  • 廐戶豐聰八耳命【上宮聖徳法王帝説】(うまややつ)厩戸豊聡八耳命
  • 聖德王【上宮聖徳法王帝説】(しょうとくのみこ, しゃうとく)聖徳王
  • 上宮聖王【上宮聖徳法王帝説】(かじり
  • 等已刀彌彌乃彌己等【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】)等已刀弥弥乃弥己等
  • 上宮聖德法王【上宮聖徳法王帝説】(かみつみやのしょうとくののりのみこ, かしゃうとく)上宮聖徳法王
  • 法主王【上宮聖徳法王帝説】ぬし
  • 法大王【聖徳太子平氏伝雑勘文】(のりのおおきみ, おほ
  • 坐伊加留我宮共治天下等已刀彌々法大王【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(いかるがのみやにともにあめのしたしろしめししとよとみみののりのおおきみ, いかるがやにもにあしたしししおほ)坐伊加留我宮共治天下等已刀弥々法大王
  • 上宮豐聰耳皇太子【新撰姓氏録抄】(か)上宮豊聡耳皇太子
  • 聖德太子尊【先代旧事本紀】(しょうとくのひつぎのみこのみこと, しゃうとく)聖徳太子尊
  • 豐聰耳聖德皇子【先代旧事本紀】(とよとみみのしょうとくのみこ, しゃうとく)豊聡耳聖徳皇子
  • 上宮廐戶豐聰耳皇太子命【先代旧事本紀】(かうまや)上宮厩戸豊聡耳皇太子命
  • 上宮廐戶豐聰耳尊【先代旧事本紀】(かうまや)上宮厩戸豊聡耳尊
性別
男性
生年月日
敏達天皇3年
没年月日
推古天皇30年2月22日
  • 用明天皇ようめいてんのう【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
  • 穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
先祖
  1. 用明天皇
    1. 欽明天皇
      1. 継体天皇
      2. 手白香皇女
    2. 堅塩媛
      1. 蘇我稲目
      2. unknown
  2. 穴穂部間人皇女
    1. 欽明天皇
      1. 継体天皇
      2. 手白香皇女
    2. 小姉君
      1. 蘇我稲目
      2. unknown
配偶者
  • 菟道貝鮹皇女うじのかいたこのひめみこ【日本書紀 巻第二十 敏達天皇五年三月戊子条】
  • 干食王后かしわでのきさき菩岐々美郎女ほききみのいらつめ【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘, 上宮聖徳法王帝説】
  • 刀自古郎女とじこのいらつめ【上宮聖徳法王帝説】
  • 位奈部橘王いなべのたちばなのみこ【上宮聖徳法王帝説】
出来事
  • 敏達天皇3年【上宮聖徳法王帝説】

    橘豊日天皇用明天皇。の第二子であり、母は皇后穴穂部間人皇女という。
    皇后が出産しようとする日に、禁中に行って諸司を監察した。
    馬官(うまのつかさ)に至り、厩の戸に当たり労せずに出産した。
    生まれながらにものを言った。聖智があった。
    壮年に及び、一度に十人の訴えを聞いては失することなく答えた。加えて未然を予知した。
    また内教(ほとけのみのり)仏教。を高麗僧恵慈に習い、外典(とつふみ)儒教の経典。を博士覚哿に学び、その悉くを悟った。
    父の天皇は可愛がって、宮の南の上殿(かみつみや)に住まわせた。
    それでその御名を称えて上宮厩戸豊聡耳太子という。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】
    • 池辺天皇の后穴太部間人王が厩戸に出た時、突然に上宮王が産まれた。

      王命(みこのみこと)は幼少にして聡敏で智があり、長じてからは一度に八人の言葉を聞き、その意味を理解して答えた。
      また一を聞いて八を知った。それで名付けて厩戸豊聡八耳命という。

      池辺天皇は、その太子聖徳王をとても愛しく思い、宮の南の上の大殿に住まわせた。それで名付けて上宮王というのである。

      【上宮聖徳法王帝説】
    • 上宮王は高麗の慧慈法師を師とした。
      王命(みこのみこと)はよく涅槃常住(ねはんじょうじゅう)五種仏性(ごしゅぶっしょう)(ことわり)を悟り、法花三車(ほっけさんしゃ)権実二智(ごんじつにち)の趣を明かに開き、維摩(ゆいま)不思議解脱(ふしぎげだつ)の宗に通達した。
      また経部(きょうぶ)薩婆多(さつばた)両家の弁を知り、また三玄五経(さんげんごきょう)の旨を知り、並びに天文・地理の道を照らした。
      そして法花などの経疏(きょうしゅ)七巻を造り、名付けて上宮御製疏(じょうぐうぎょせいしょ)という。

      太子の問う所の義に、師に通じない所があった。
      太子は夜に夢を見た。金人がやってきて解せなかった義を教えた。
      太子は目覚めた後に解した。そして師に伝え、師もまた領解した。
      このような事は一度や二度ではなかった。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 聖徳法王は膳部加多夫古臣の女子、名は菩岐々美郎女を娶り、生まれた児は
    舂米女王
    次に長谷王
    次に久波太女王
    次に波止利女王
    次に三枝王
    次に伊止志古王
    次に麻呂古王
    次に馬屋古女王
    以上八人。

    また聖王は蘇我馬古叔尼大臣の女子、名は刀自古郎女を娶り、生まれた児は
    山代大兄王。この王は賢く尊い心があり、身命を棄てて人民を愛した。後人は父の聖王と乱れ混ぜてしまっているがそうではない。
    次に財王
    次に日置王
    次に片岡女王
    以上四人。

    また聖王は尾治王の女子位奈部橘王を娶り、生まれた児は
    白髪部王
    次に手島女王

    合わせて聖王の児は十四王子である。

    【上宮聖徳法王帝説】
  • 用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。崩御が癸丑(9日)であれば丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。

    天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
    天皇は群臣に詔して「朕は三宝仏・法・僧。に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
    物部守屋大連中臣勝海連が詔を違えて言うには「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」と。
    蘇我馬子宿禰大臣が言うには「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」と。
    皇弟皇子(すめいろどのみこ)「皇弟皇子とは穴穂部皇子、即ち天皇の庶弟である」とある。豊国法師「闕名」とある。を連れて内裏に入った。
    物部守屋大連は横目で睨んで激怒した。

    この時に押坂部史毛屎が慌ててやってきて、密かに大連に「いま群臣が謀って、あなたの退路を断とうとしています」と語った。
    大連はこれを聞き、阿都(あと)「阿都とは大連の別業がある所の地名である」とある。に退いて人を集めた。

    中臣勝海連は家に兵を集めて大連を助けた。
    遂に太子彦人皇子の像と竹田皇子の像を作って呪った。
    しばらくすると事の成り難いことを知り、彦人皇子水派宮(みまたのみや)水派。此云美麻多。に帰伏した。

    舎人の迹見赤檮「迹見は姓であり、赤檮は名である。赤檮、此れを伊知毘と云う」とある。勝海連彦人皇子の所へ退くのを伺い、刀を抜いて殺した。

    大連は阿都の家から物部八坂大市造小坂漆部造兄を遣わして馬子大臣に言うには「群臣が私を謀ろうとしていることを聞いた。それで私は退いたのである」と。

    馬子大臣土師八島連大伴毘羅夫連の所に遣わして、詳しく大連のことを話した。
    これにより毘羅夫連は手に弓箭・皮楯を執り、槻曲(つきくま)の家「槻曲の家とは大臣の家である」とある。に行き、昼夜離れずに大臣を守護した。

    天皇の病はいよいよ重くなり、まさに臨終という時に鞍部多須奈「司馬達等の子である」とある。が奏上して「臣は天皇の御為に出家して脩道致します。また丈六の仏像及び寺を造って奉じます」と。
    天皇は悲しんで大声で泣いた。
    南淵(みなぶち)坂田寺(さかたでら)の木の丈六の仏像・挟侍(きょうじ)の菩薩がこれである。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月丙子条】
    • 用明天皇元年

      池辺大宮治天下天皇用明天皇。が大御身を労き賜った時、丙午年に大王天皇推古天皇。太子聖徳太子。を召して誓願し賜い、「我が大御病が太平になって欲しいと思う。だから寺と薬師像を作って仕え奉ろう」と詔した。

      【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】
  • 用明天皇2年4月9日

    用明天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】
    • 用明天皇2年

      時に崩じ賜ってしまい、造るまで堪えられなかったので用明天皇が自身の病の治癒を祈願して造らせた寺と薬師像。小治田大宮治天下大王天皇と東宮聖王は大命を受け賜って丁卯年に仕え奉った。

      【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】
  • 用明天皇2年7月

    蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣に勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。

    泊瀬部皇子竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子春日皇子蘇我馬子宿禰大臣紀男麻呂宿禰巨勢臣比良夫膳臣賀拕夫葛城臣烏那羅らは軍勢を率いて、大連を討つために進発した。

    大伴連噛阿倍臣人平群臣神手坂本臣糠手春日臣「闕名字」とある。らは軍兵を率いて、志紀郡(しきのこおり)から渋河の家に至った。

    大連は自ら子弟と(やっこ)の軍を率いて、稲城を築いて戦った。
    大連衣揩(きぬすり)地名。にある朴の木の枝の間に上り、雨のように矢を射た。
    その軍は強く盛んで、家に満ち野に溢れた。

    皇子たちの軍と群臣の軍は、怯え恐れて三度退いた。

    この時に厩戸皇子は(ひさご)のように髪を束ねて「古からの風俗で、年少の個、年十五、六の間は束髪於額(ひさごばな)にして、十七八の間は分けて角子(あげまき)にする。今もまた然り」とある。、軍の後に従っていた。
    推し測って「もしかすると負けてしまうのではないか。願わずに成功は難しいであろう」と口にすると、白膠木(ぬりで)白膠木。此云農利泥。を斬り、すぐに四天皇像を作って髪の上に置いた。
    そして誓いの言葉を発して「今もし我々が敵に勝つことが出来たら、必ずや護世四王(ごせしおう)の為に寺塔を建てましょう」と。

    蘇我馬子大臣もまた誓いの言葉を発して「凡そ諸天王・大神王たちが我々を助け守って勝利を得ることが出来れば、願わくは諸天と大神王の為に寺塔を建てて三宝を伝えましょう」と。
    誓いが終わると、様々な武器を備えて進撃した。

    ここに迹見首赤檮あり。
    大連を枝の下に射落し、大連とその子らを殺した。

    これにより大連の軍は忽ちに敗れた。
    兵士の悉くが黒衣を着て、広瀬(ひろせ)勾原(まがはら)で狩りをするふりをして散った。

    この役で、大連の子と一族は、或いは葦原(あしはら)に逃げ隠れ、姓を改め名を変える者があれば、或いは逃亡先も知られぬ者もあった。

    時の人は「蘇我大臣の妻は物部守屋大連の妹である。大臣は妄りに妻の計を用いて、大連を殺したのだ」と語り合った。

    平乱の後、摂津国に四天王寺(してんのうじ)を建てた。
    大連の奴の半数と家とを分けて、大寺の奴・田荘(たどころ)とした。

    田一万一代は百畝。迹見首赤檮に賜った。

    蘇我大臣もまた願いのままに、飛鳥の地に法興寺(ほうこうじ)を起工した。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】
    • 用明天皇2年(6月 ~ 7月)

      丁未年六、七月。蘇我馬子宿禰大臣物部守屋大連知恩院本は「物部室屋」の「室」に見せ消ちして「守」を遺筆補記。を討った。
      時に大臣の兵士は勝たずに退いた。
      そして上宮王は四王の像を挙げて兵士の前に立ち、誓って「もしこの大連を亡ぼすことが出来れば、四王の為に寺を造り、尊重して供養しよう」と言った。
      すると兵士は勝ちを得て、大連を殺害した。
      これにより難波に四天王寺を造ったのである。
      聖王が生まれて十四年のことである。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 崇峻天皇5年11月3日【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条】

    三十九歳にして泊瀬部天皇五年十一月に、崇峻天皇大臣馬子宿禰に殺され空位となる。

    群臣は渟中倉太珠敷天皇敏達天皇。の皇后額田部皇女後の推古天皇。に請うて即位させようとしたが、皇后は辞退した。
    百寮は上表して勧請した。
    三度目に従い、天皇の璽印を奉じた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀】
  • 崇峻天皇5年12月8日

    推古天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇即位前紀 崇峻天皇五年十二月己卯条】
  • 推古天皇元年4月10日

    推古天皇が厩戸豊聡耳皇子を皇太子に立て、政を摂らせて万機の悉くを委ねる摂政。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇元年四月己卯条】
    • 小治田宮で東宮となった。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇2年2月1日

    推古天皇が太子及び大臣に詔して三宝仏・法・僧の三つ。を興隆させるように命じる。
    この時に諸臣連らは各々君親の恩の為に競って仏舎を造った。即ちこれを寺という。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二年二月丙寅朔条】
    • 少治田宮御宇天皇の世に上宮厩戸豊聡耳命は島大臣と共に天下の政を助けて三宝を興隆させた。
      元興(がんごう)四天皇(してんのう)知恩院本は「天四皇」だが改めた。などの寺を起した。

      【上宮聖徳法王帝説】
    • 太子は七寺を起した。
      四天皇寺(してんのうじ)法隆寺(ほうりゅうじ)中宮寺(ちゅうぐうじ)橘寺(たちばなでら)蜂丘寺(はちおかでら)「かの宮を并せて川勝秦公に賜う」とある。池後寺(いけじりでら)葛木寺(かずらきでら)「葛木臣(かずらきのおみ)に賜う」とある。

      【上宮聖徳法王帝説】
    • 推古天皇13年5月

      少治田天皇の御世の乙丑年五月に聖徳王と島大臣が共に議って仏法を建立し、更に三宝を興した。
      即ち五行に准じて爵位を定めた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇3年5月10日

    高麗(こま)恵慈が帰化して皇太子の師となる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年五月丁卯条】
  • 推古天皇9年2月

    宮を斑鳩(いかるが)に興す。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇九年二月条】
  • 推古天皇11年2月4日

    来目皇子が筑紫で薨じた。

    天皇はこれを聞いて大いに驚き、皇太子と蘇我大臣を召して言うには「征新羅大将軍来目皇子が薨じた。大事に臨んだが遂げることは出来なかった。甚だ悲しいことである」と。
    そして周芳(すおう)国の娑婆(さば)に殯した。土師連猪手を遣わして殯の事を司らせた。

    後に河内の埴生山岡上(はにゅうのやまのおかのえ)に葬られた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年二月丙子条】
  • 推古天皇11年11月1日

    皇太子が諸大夫に言うには「私は尊い仏像を持っている。誰かこの像を崇拝するか」と。
    時に秦造河勝が進み出ると「臣が拝みましょう」と言って仏像を受けた。
    それで蜂岡寺(はちおかでら)を造った。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年十一月己亥朔条】
  • 推古天皇11年11月

    天皇に請うて大楯・靱。此云由岐。を作り、また旗幟(はた)を描いた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十一年十一月是月条】
  • 推古天皇12年4月3日

    皇太子自ら憲法十七条を作る。

    一に曰く、和を以って(とうと)しと為し、(さから)うこと無きを宗とせよ。人は皆(たむろ)する。また(さと)る者は少ない。是を以って或いは君や父に従わず、また隣里と(たが)う。然れども上は和ぎ下は睦びて事を論じれば、自ずから事理は通う。何事も成し遂げられないことはない。

    二に曰く、篤く三宝を敬うように。三宝とは仏・法・僧である。則ち四生胎生・卵生・湿生・化生。生きとし生けるもの。終帰(おわりのよりどころ)、万国の極宗(きわめのむね)である。何れの世、何れの人も、この法を貴ばずにいられようか。甚だ悪い人は(すくな)い。よく教えれば従う。三宝によらなければ、何を以って(まが)ったものを(ただ)せようか。

    三に曰く、詔を承れば必ず謹むように。君を天とする。臣を地とする。天は覆い、地は載せる。四つの時春夏秋冬。が順行すれば万気は通うことができる。地が天を覆おうとすれば秩序は壊れてしまう。是を以って君の言葉を臣は承るのである。上が行えば下は靡く。よって詔を承れば必ず慎しむように。謹しまなければ自ずから失敗する。

    四に曰く、群卿・百寮は礼を以って本とせよ。民を治める要は礼にある。上に礼が無ければ下は(ととの)わず、下に礼が無ければ必ず罪を犯す。是を以って群臣に礼が有れば位次は乱れず、百姓(おおみたから)に礼が有れば国家は自ずと治まる。

    五に曰く、飲食の貪りを絶ち、物欲を棄てよ。訴訟は明かに裁くように。百姓の訴えは一日に千件もある。一日でもこうであるのに年を重ねれば尚更である。この頃は訴えを治める者は利を得るを常とし、(まいない)を見てから申し立てを聞く。財のある者の訴えは水に投げた石のように通り、乏しい者の訴えは石に投げた水に似る。是を以って貧民は知る由もない。臣としての道理もまた欠けてしまう。

    六に曰く、悪を懲らし善を勧めることは古の良い(のり)である。是を以って人の善を匿すことなく、悪を見れば必ず(ただ)すように。(へつら)(あざむ)く者は、国家を覆す(するど)い器であり、人民を絶つ剣の(きっさき)である。また(へつら)()びる者は、上に対しては下の過ちを好んで説き、下に逢っては上の過ちを誹謗(そし)る。これらの人は皆、君には忠が無く、民には仁が無い。これは大乱の本である。

    七に曰く、人には各々任がある。掌ることに濫れは宜しくない。賢哲者が官を任されれば、褒め称える声はすぐに起る。奸者が官にあれば、禍乱が多くなる。世に生まれながらに知る者は少ない。よく考えて聖となるのである。事に大少無く、人を得て必ず治まる。時に緩急は無い。賢者に遇えば自ずと治まる。これにより国家は永久にして社稷に危機は無くなる。それで古の聖王(ひじりのきみ)は官の為に人を求め、人の為に官を求めなかったのである。

    八に曰く、群卿・百寮は早く参朝して遅く退朝せよ。公事は絶え間がない。終日にかけても尽くし難い。是を以って遅く参朝すれば急事に間に合わない。早く退朝すれば必ず事を尽くすことはできない。

    九に曰く、信は義の本である。毎事に信あるべきである。善悪・成否の要は信にある。群臣が共に信あれば何事も成らぬことはない。群臣に信が無ければ万事ことごとく失敗する。

    十に曰く、怒りを絶ち、恨みを棄てよ。人と違っても怒ってはならない。人には心がある。それぞれ思うこともある。相手が是でも自分は非であったり、自分が是でも相手が非であったりする。自分は必ず聖ではない。相手は必ず愚かではない。共に凡人なのである。是非の理を誰が定められようか。互いの賢愚は、端が無い輪のようなものである。是を以って相手が怒っていても自分の過ちを省みよ。自分一人が正しいと思っても衆人に従い行動せよ。

    十一に曰く、功罪は明かに()て、賞罰は必ず正当にせよ。日頃、賞は功に合っておらず、罰は罪に合っていない。事を執る群卿は賞罰を明かにせよ。

    十二に曰く、国司(くにのみこともち)国造は百姓から搾取してはならない。国に二君は無い。民に両主は無い。国土の兆民(おおみたから)は王を主とせよ。仕える官司は皆これ王の臣である。どうして公だからと百姓から搾取できようか。

    十三に曰く、諸官を任される者は職掌を知るように。或いは病で、或いは使いとして、事を()くこともある。しかし知り得る日には、以前から知っているように(あまな)うように。それを聞いていないとして公務を妨げてはならない。

    十四に曰く、群臣・百寮は嫉妬があってならない。自分が人を嫉妬すれば人が自分を嫉妬する。嫉妬の患いは極みを知らない。ゆえに己を勝る知識を喜ばず、己に優る才能を嫉妬する。是を以って五百年にして逢う賢人や千年に一度の聖人を待つことも難しくなる。賢人・聖人を得ずにどうして国を治められようか。

    十五に曰く、(わたくし)を背いて(おおやけ)に向うは臣の道である。凡人とは、人がいれば必ず恨みがある。恨みがあれば同調することは無い。同調することが無ければ私を以って公を妨げる。恨みが起るときは(ことわり)(たが)(のり)(やぶ)る。それで初めの章第一条の和を以って云々を指す。に云う、上下の和をとなえるのは、この心情からである。

    十六に曰く、民を使うに時を以ってするというのは古の良典である。それで冬の月に間があれば民を使うのは良い。春から秋にかけては農桑の季節なので民を使ってはならない。農業を怠れば何を食べられようか。養蚕を怠れば着られようか。

    十七に曰く、事の独断をしてはならない。必ず衆人と論じるように。少事は軽く、必ずしも衆人に合わせなくても良いが、大事を論じる場合は誤りがあることを疑うように。衆人と意見を交えれば道理を得られる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十二年四月戊辰条】
    • 推古天皇13年7月

      十七余法を立てる。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇13年4月1日

    天皇が皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、共に同じく誓願を発てて、はじめて(あかがね)(ぬいぎぬ)の丈六の仏像を各一躯造った。
    そして鞍作鳥に命じて造仏の(たくみ)とした。
    この時に高麗(こま)国の大興王が日本国の天皇が仏像を造ったと聞いて、黄金三百両を貢上した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年四月辛酉朔条】
  • 推古天皇13年閏7月1日

    諸王・諸臣に命じて(ひらおび)を着用させる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年閏七月己未朔条】
  • 推古天皇13年10月

    斑鳩宮(いかるがのみや)に居住する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十三年十月条】
  • 推古天皇14年7月

    天皇は皇太子を招いて勝鬘経(しょうまんきょう)を講じさせた。三日で説き終えた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年七月条】
    • 推古天皇6年4月15日

      戊午年四月十五日に少治田天皇が上宮王に請うて勝鬘経を講じさせた。
      その儀は僧のようであった。
      諸王・公主、及び臣・連・公民は信受して喜ばないことは無かった。
      三日の内に講説は終った。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇14年

    皇太子は法華経を岡本宮(おかもとのみや)で講じた。天皇は大いに喜んで播磨国の水田百町を皇太子に与えた。
    それでこれを斑鳩寺(いかるがでら)に納めた。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十四年是歳条】
    • 天皇は聖王に播磨国(はりまのくに)揖保郡(いいほのこおり)佐勢(させ)の地の五十万代を布施した。
      聖王はこの地を法隆寺(ほうりゅうじ)の地としたのである。いま播磨にある田は三百余町知恩院本の裏書に「或る本に云うには、播磨の水田は二百七十三丁五反廿四卜云々。またの本に云うには、三百六十丁云々」とある。である。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇15年2月9日

    推古天皇が詔して「朕が聞くところによると、昔、我が皇祖の天皇たちが世を治めたまうことは、天地に恐縮して神祇を厚く敬い、遍く山川を祀り、遥か乾坤に心を通わせたという。これにより陰陽は調和して、造化は共に整った。朕の世になっても神祇の祭祀を怠ってはならない。群臣は共に心を尽くして神祇を拝するように」と。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月戊子条】
  • 推古天皇15年2月15日

    皇太子及び大臣が百寮を率いて神祇を祀り拝した。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十五年二月甲午条】
  • 推古天皇21年12月1日

    皇太子が片岡に行啓する。

    時に飢えた者が道のほとりに臥せていた。それで姓名を問うと返事は無かった。

    皇太子はそれを見て食料を与え、衣裳を脱いで飢えた者を覆って「安らかに臥せよ」と言った。
    そして歌って言うには

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    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十一年十二月庚午朔条】
  • 推古天皇21年12月2日

    皇太子が使いを遣わして飢えていた者を確認させた。
    使者が帰還して「飢えていた者は既に死んでおりました」と言った。
    皇太子は大いに悲しみ、その場所に埋葬して墓を築いた。

    数日の後、皇太子は近習の者を召して「先日、飢えて道に臥せていた者は凡人ではない。きっと真人(ひじり)であろう」と言うと、使いを遣わして確認させた。
    使者が帰還して言うには「墓に到着して確認をすると、墓は動いておりませんでした。しかし開けて見てみると屍は無くなっておりました。ただ衣服が畳まれて棺の上に置いてありました」と。
    皇太子はまた使者を返してその衣を取らせると、またいつものように着た。

    時の人は大いに怪しんで「聖は聖を知るというのは本当なんだな」言い、ますます畏まった。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十一年十二月辛未条】
  • 推古天皇23年11月15日

    高麗僧慧慈が帰国する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十三年十一月癸卯条】
    • 慧慈法師上宮御製疏(じょうぐうぎょせいしょ)(もたら)し、本国に帰還して流伝した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇28年

    蘇我馬子と議って、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録する。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十八年是歳条】
    • 推古天皇28年2月11日

      上宮厩戸豊聡耳皇太子命と大臣蘇我馬子宿禰が勅を受け、先代旧事・天皇紀及び国記、臣・連・伴造・国造、その他の部民・公民らの本紀を撰録する。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 推古天皇二十八年二月甲辰条】
  • 推古天皇29年12月21日

    日の入りに孔部間人王上宮聖徳法王帝説知恩院本は「孔部間人母王」とするが、天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文の「母孔部間人王」に従う。聖徳太子の実母。が崩じる。

    【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
    • 推古天皇29年12月

      法興崇峻天皇四年を元年とする年号。元丗一年、辛巳年十二月に鬼前太后が崩じる。

      【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】
  • 推古天皇30年1月22日

    上宮法皇が病に枕した。
    干食王后も看病に労して倒れてしまった。
    時に王后・王子たち及び諸臣は深く愁毒を懐き、共に発願して「仰いで三寳に依り、まさに王身の寸法の釈像を造るべきである。この願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住しますように。もしこれが定業にして世に背くのであれば、浄土に登り、早く妙果に昇りますように」と。

    【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】
  • 推古天皇30年2月21日

    王后が即世する。

    【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】
    • 歌に証して曰く、

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      膳夫人が臥病して、まさに没する時に水を乞うたのである。

      しかし聖王は許さず、遂に夫人は卒した。
      聖王は(しのびごと)知恩院本は「誅」とするが「誄」に改めた。してこの歌を詠んだ。即ちその証である。

      【上宮聖徳法王帝説 法隆寺金堂坐釈迦仏光後銘文 釈曰】
  • 推古天皇30年2月22日

    法皇が登遐する。

    【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】
    • 推古天皇30年2月22日

      夜半に崩じる。

      【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
    • 推古天皇29年2月5日

      夜半に斑鳩宮(いかるがのみや)で薨じた。

      この時、諸王・諸臣及び天下の百姓は、老人が愛児を失うようで、塩や酢の味がわからなくなる程であった。
      幼い者は亡き父母を慈しむようで、泣き声が道を満たした。
      耕夫は鋤を止め、舂女(つきめ)は杵を止めた。
      皆が言うには「日も月も輝きを失い、天地が崩れたようなものだ。今後は誰を恃みにすればよいのか」と。

      【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月癸巳条】
  • (推古天皇30年2月22日 ~ )

    時に多至波奈大女郎は悲しみ嘆息して言うには「畏き天皇の前で申し上げるのは勘点文はここに「皇前曰啓」を置く。ここでは勘点文に従う。恐れ多いことですが、懐く心を止めるのは難しいのです。我が大王と母王が期を同じくして従遊されました。痛酷は比べようがありません。我が大王のお告げでは、世間は虚仮であり、ただ仏のみが真であると仰いました。その法を玩味すると、我が大王はまさに天寿国の中に生まれるべきだと思うのです。しかしその国の形は目には見えません。願わくは図像に因り、大王帝説知恩院本は「往」、勘点文は「住」とする。帝説に従う。生のお姿を拝見したいと思います」と。
    天皇はこれを聞いて悽然帝説知恩院本は「悽状一」とするが誤りであろう。勘点文に従い「悽然」に改めた。として言うには「我が孫が申すことは誠である。その通りにせよ」と。
    諸々の采女らに勅して繍帷二張を造らせた。

    画者は東漢末賢高麗加西溢、また漢奴加己利
    令者は椋部秦久麻

    【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
  • 慧慈法師これ聖徳太子の死。を聞いて王命(みこのみこと)の為に経を講じ、発願して「上宮の聖に必ず逢おうと思う。吾れ慧慈は来年二月廿二日に死んで、必ず聖王に逢って側で浄土に奉る」と。
    遂にその言葉のとおりに明くる年の二月廿二日推古天皇31年2月22日。に発病して命を終えた。

    【上宮聖徳法王帝説】
    • 推古天皇29年2月(5日 ~ 29日)

      磯長陵(しながのみささぎ)に葬られる。

      この時、高麗僧慧慈は上宮皇太子が薨じたことを聞いて大いに悲しみ、皇太子の為に僧を集めて設斉した。
      自ら経を説く日に誓願して「日本国に聖人あり。上宮豊聡耳皇子という。天に許され、はるかな聖の徳を持って日本の国に誕生した。三統(きみのみち)夏の禹王・殷の湯王・周の文王を指す。を越えるほどに、先の聖の仕事を受け継ぎ、三宝を慎んで敬い、人民を苦しみから救った。これは真の大聖である。太子は既に薨じ、私は国が異なるが、絆の強さは金を断つほどである。独りで生きていても何の意味もない。私は来年二月五日に必ず死ぬ。そして上宮太子に浄土で再会して、共に衆生に教えを広めよう」と。

      慧慈は約束の日に死んだ。
      時の人は誰もが「上宮太子だけが聖ではなく、慧慈もまた聖である」と言った。

      【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十九年二月是月条】
    • 墓は川内志奈我岡(かわちのしながのおか)

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇31年3月

    癸未年三月中頃に、願いの如く慎んで釈迦尊像・侠侍(きょうじ)、及び荘厳具(しょうごんぐ)を造り終えた。
    この微福に乗じて、道を信じる知識は、現在は安隠に、生を出て死に入れば、三主に随奉し、三宝を紹隆し、遂に彼堓を共にする。
    六道に普遍する法界の含識も、苦縁を脱することを得て、同じく菩提に趣くように。

    司馬鞍首止利仏師に造らせた。

    【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】