紀男麻呂

  • twitterでツイートする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
名前
  • 氏(ウジ):紀【日本書紀】
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 名:男麻呂【日本書紀】(おまろ, をま
  • 紀男麻呂宿禰【日本書紀】(きのおまろのすくね, をますくね)
  • 紀臣男麻呂宿禰【日本書紀】(きのおみおまろのすくね, をますくね)
  • 紀臣麻呂宿禰校異【日本書紀】すくね)
生年月日
( ~ 欽明天皇23年7月29日)
没年月日
(推古天皇3年7月1日 ~ )
出来事
  • 欽明天皇23年7月

    欽明天皇は大将軍紀男麻呂宿禰を遣わして、兵を率いて哆唎(たり)から出発させた。
    副将河辺臣瓊缶居曽山(こむそれ)から出発した。
    そして新羅が任那を攻めた状況を問責しようとした。

    遂に任那に至り、薦集部首登弭を百済に遣わして軍の計略を約束した。
    登弭は妻の家に泊り、印書・弓箭を道に落としてしまった。
    新羅はつぶさに軍の計略を知った。
    にわかに大軍を起こすと次々に敗北して、降伏したいと申し出た。

    紀男麻呂宿禰は勝ちを得ると軍を率いて百済の軍営に入った。
    軍中に令して「たとえ勝っても敗れることがあることを忘れてはならない。安全でも必ず危険を考慮することは古からの善い教えである。今いる場所は山犬と狼が交わるような場所である。軽率なことをして後難を忘れてはならない。また平安の世でも刀剣は手離してはならない。君子の武備は怠ってはならない。深く警戒して、この令を務めるように」と。
    士卒は心服した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年七月是月条】
  • 用明天皇2年7月

    諸皇子や蘇我馬子ら群臣と共に物部守屋を討つ。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年七月条】
  • 崇峻天皇4年11月4日

    巨勢猿臣大伴囓連葛城烏奈良臣らと共に大将軍に任命される。
    氏々の臣・連を副将・隊長として、二万余りの軍を率いて筑紫に出向する。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇四年十一月壬午条】
  • 崇峻天皇5年11月3日

    崇峻天皇が暗殺される。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月乙巳条】
  • 崇峻天皇5年11月5日

    朝廷が早馬を筑紫の将軍の所に遣わして「内乱によって外事を怠ってはならない」と伝える。

    【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇五年十一月丁未条】
  • 推古天皇3年7月

    将軍らが筑紫から引き上げる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三年七月条】