清寧天皇
- 名前
- 漢風諡号:淸寧天皇(せいねいてんのう, せいねいてんわう)清寧天皇
- 和風諡号:白髮武廣國押稚日本根子天皇【日本書紀】(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)白髪武広国押稚日本根子天皇
- 白髮武廣國押日本根子天皇校異【日本書紀】(しらかのたけひろくにおしやまとねこのすめらみこと)白髪武広国押日本根子天皇
- 白髮天皇【日本書紀】(しらかのすめらみこと)白髪天皇
- 白髮皇子【日本書紀】(しらかのみこ)白髪皇子
- 白髮命【古事記】(しらかのみこと)白髪命
- 白髮太子【古事記】(しらがのひつぎのみこ)白髪太子
- 白髮武廣國押稚日本根子皇子尊【先代旧事本紀】(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのみこのみこと)白髪武広国押稚日本根子皇子尊
- 白髮大倭根子命【古事記】(しらがのおおやまとねこのみこと, しらがのおほやまとねこのみこと)白髪大倭根子命
- 白髮武廣國押稚子日本根子尊【先代旧事本紀】(しらかのたけひろくにおしわくごのやまとねこのみこと)白髪武広国押稚子日本根子尊
- 白髮武廣國押稚子日本根子皇子【先代旧事本紀】(しらかのたけひろくにおしわくごのやまとねこのみこ)白髪武広国押稚子日本根子皇子
- 磐余甕栗宮御宇天皇【先代旧事本紀】(いわれのみかくりのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと, いはれのみかくりのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 雄略天皇22年1月1日)
- 没年月日
- 清寧天皇5年1月16日
- 父
雄略天皇 【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀】
- 母
葛城韓媛 【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀】
- 先祖
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第22代
天皇
- 第22代
- 出来事
-
雄略天皇22年1月1日
立太子。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十二年正月己酉朔条】 -
雄略天皇23年7月1日
雄略天皇が病に伏し、賞罰・掟、事の大小となく委ねられる。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年七月辛丑朔条】 -
雄略天皇23年8月7日雄略記では己巳年八月九日。
雄略天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年八月丙子条】 -
雄略天皇23年8月(7日 ~ 30日)
吉備稚媛は密かに次子の星川皇子に「天下の位に登りたいのであれば、先ず大蔵の官を取りなさい」と言った。
長子の磐城皇子は母がその幼子に教えることを聞いて「皇太子は我が弟といえども安易に欺いてはならない」と語った。
星川皇子は聞かずに母の意に従い、遂に大蔵の官を取った。
外門を閉ざして事に備え、権勢をほしいままにして官物を費やした。ここに大伴室屋大連が東漢掬直に言うには「大泊瀬天皇の遺詔のことが今まさにやって来ようとしている。遺詔に従って皇太子にお仕えすべきである」と。
そして兵を起して大蔵を囲った。
外を防ぎ固めて火をつけて焼き殺した。この時に吉備稚媛・磐城皇子・異父兄兄君・城丘前来目闕名とある。は星川皇子に従って焼き殺された。
河内三野県主小根は恐れ慄き、火を避けて逃げ出た。
草香部吉士漢彦の脚に抱きついて大伴室屋大連に助命を乞うてほしく言うには「奴、県主小根が星川皇子に仕えていたことは事実です。しかし皇太子に背くものではございません。どうか大恩を垂れて命をお救い下さい」と。漢彦は詳しく大伴大連に申し立てた。刑の類に入ることはなかった。
小根が漢彦を通じて大連に言うには「我が君大伴大連が大いなる恵みをお下しになり、短かい命を引き延ばして頂きました。日の光を見ることが出来ました」と。
即ち
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀 雄略天皇二十三年八月条】難波 の来目邑 の大井戸 の田十町を大連に送った。
また田地を漢彦に与えてその恩に報いた。 -
雄略天皇23年8月(7日 ~ 30日)
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雄略天皇23年10月4日
大伴室屋大連が臣・連らを率いて
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇即位前紀 雄略天皇二十三年十月壬申条】璽 を皇太子に奉る。 -
清寧天皇元年1月15日
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【古事記 下巻 清寧天皇段】伊波礼之甕栗宮 にて天下を治めた。
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清寧天皇元年10月9日
大泊瀬天皇雄略天皇を
丹比高鷲原陵 に葬る。この時に
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇元年十月辛丑条】隼人 が昼夜、陵の側で泣き叫んだ。
食事を与えても食べず、七日目に死んだ。
司は墓を陵の北に造り、礼を以って葬った。 -
清寧天皇2年2月
天皇は子が無いことを惜しんだ。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇二年二月条】
それで大伴室屋大連を諸国に遣わして白髪部舎人 古事記では雄略天皇が白髪太子(後の清寧天皇)の御名代として白髪部舎人を置いている。・白髪部膳夫 ・白髪部靫負 を置いた。
遺跡を残して後世に伝えたいと思ったのである。-
この天皇に皇后はなく、また御子もいなかった。
【古事記 下巻 清寧天皇段】
それで御名代として白髪部 を定めた。
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清寧天皇2年11月
大嘗 の供物の為に、播磨国に遣わした山部連 の先祖伊与来目部小楯が赤石郡 の縮見屯倉 の首 の忍海部造細目の新室の宴で市辺押磐皇子の子の億計・弘計を見つけた。
畏れ敬い、共に抱いて君として崇め奉ろうと思った。
大いに謹み養って私財を以って奉った。
即ち柴宮 を建てて仮に住まわせて早馬を馳せて奏上した。天皇は愕然として嘆いた。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇二年十一月条】
しばらくして感慨深く言うには「良いことだ。喜ばしいことだ。天は大きな恵みを垂れて両児を賜った」と。-
清寧天皇が崩じた後、天下を治めるべき王はいなかった。
そこで皇位を継ぐ王を尋ねて、市辺忍歯別王の妹の忍海郎女。またの名は飯豊王は、
葛城 の忍海 の高木角刺宮 にいた。山部連小楯が針間播磨の国司に任ぜられた時、その国の人民で名は志自牟が新室完成の宴を開いた。
【古事記 下巻 清寧天皇段】
盛んに酒宴を楽しみ、宴もたけなわになったころ、皆が順に従って舞いを舞った。
火を焚く少年二人が竃の側にいて、その少年達にも舞わせた。
そのうちの一人の少年が「兄さん、先に舞いなさい」と言った。
その兄は「弟よ、先に舞いなさい」と言った。
こうして互いに譲り合っていると、集まった人達はその譲り合う様子を笑った。
そしてとうとう兄が舞い終わり、次に弟がまさに舞おうとしたときに詠め言声を長く引いて歌うこと。をした。
「武人である我が良人が佩く大刀の柄には赤い色を塗りつけ、その緒は赤い布で飾り、赤旗を立て、見れば恐れて隠れる。山の尾根の竹を根元から刈り、竹の末を押しなびかせるように、八絃の琴の調子を調えるように、天下を治めた伊邪本和気天皇履中天皇の御子、市辺之押歯王の賎しい子孫です」と。
小楯連はこれを聞いて驚き、床から転げ落ちた。
その室にいる人達を追い出して、その二柱の王子を左右の膝の上に据えて泣き悲しんだ。
人民を集めて仮宮を造り、その仮宮に住まわせた。
そして駅使 早馬による使者。を遣わした。
その叔母の飯豊王は知らせを聞いて喜び、宮に上らせた。
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清寧天皇3年1月1日
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清寧天皇3年4月7日
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清寧天皇3年7月
飯豊皇女は
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年七月条】角刺宮 で初めて夫と交わった。
人に語っていうには「女の道を知ったが特別なことはない。今後は男と交わることは望まない」と。
この夫ありというが、未だ詳らかでない。 -
清寧天皇3年9月2日
臣・連を遣わして風俗を巡察させる。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年九月癸丑条】 -
清寧天皇3年10月4日
詔して「犬・馬・
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年十月乙酉条】器翫 を献上してはならない」と。 -
清寧天皇3年11月18日
臣・連と大庭で宴を開いた。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年十一月戊辰条】
綿・帛を賜ると、皆持てる限り持って退出した。 -
清寧天皇3年11月
海外諸国が使いを遣わして貢物を献上した。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇三年十一月是月条】 -
清寧天皇4年1月7日
海外諸国の使者を朝堂に呼んで宴を開いた。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇四年正月丙辰条】
各々に賜物があった。 -
清寧天皇4年閏5月
大いに飲食すること五日。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇四年閏五月条】 -
清寧天皇4年8月7日
天皇自ら囚徒を訪うた。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇四年八月癸丑条】
この日、蝦夷・隼人も共に従った。 -
清寧天皇4年9月1日
天皇は
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇四年九月丙子朔条】御射殿 で百寮及び海外の使者に詔して弓を射させた。
各々に賜物があった。 -
清寧天皇5年1月16日
天皇は宮で崩じた。
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇五年正月己丑条】
時に年若干。-
【古事記 下巻 清寧天皇段】
天皇が崩じた後、天下を治めるべき王はいなかった。
古事記では、オケ・ヲケの王は清寧天皇崩御後に発見される。
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清寧天皇5年11月9日
【日本書紀 巻第十五 清寧天皇五年十一月戊寅条】河内坂門原陵 に葬られる。