物部尾輿

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名前
  • 氏(ウジ):物部【日本書紀】(も
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 姓(カバネ):連公【先代旧事本紀】(むらじ)連公
  • 名:尾輿【日本書紀】(おこし, をこし)
  • 物部大連尾輿【日本書紀】(もののべのおおむらじおこし, もおほむらじをこし)物部大連尾輿
  • 物部尾輿大連【日本書紀】(もののべのおこしのおおむらじ, もをこしおほむらじ)物部尾輿大連
性別
男性
生年月日
( ~ 安閑天皇2年1月1日)
没年月日
(欽明天皇13年10月1日 ~ )
  • 物部荒山もののべのあらやま【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
先祖
  1. 物部荒山
    1. 物部目
      1. 物部伊莒弗
      2. unknown
    2. unknown
  2. unknown
配偶者
  • 阿佐姫あさひめ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
  • 加波流姫かはるひめ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】
  • 物部御狩もののべのみかり【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:阿佐姫あさひめ
  • 物部守屋もののべのもりや【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:阿佐姫あさひめ
  • 物部金弓若子もののべのかなゆみわくご【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:阿佐姫あさひめ
  • 物部布都姫もののべのふつひめ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:阿佐姫あさひめ
  • 物部贄子もののべのにえこ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:加波流姫かはるひめ
  • 物部麻伊古もののべのまいこ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:加波流姫かはるひめ
  • 物部多和髪もののべのたわかみ【先代旧事本紀 巻第五 天孫本紀】【母:加波流姫かはるひめ
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大連おおむらじ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十二月甲申条】
出来事
  • 安閑天皇元年閏12月

    廬城部連枳莒喩(むすめ)幡媛が物部大連尾輿の瓔珞(くびたま)珠の首飾りを盗み取って春日皇后に献上した。

    事が発覚するに至り枳莒喩は女の幡媛采女丁(うねめのよほろ)として献上した。これは春日部采女(かすがべのうねめ)である。
    併せて安芸国の過戸(あまるべ)廬城部屯倉(いおきべのみやけ)を献上して女の罪を贖った。

    物部大連尾輿は事が自分に関することを恐れて不安を感じ、十市部(とおちべ)、伊勢国の来狭狭(くささ)登伊(とい)「来狭狭・登伊の二つは邑の名である」とある。贄土師部(にえのはじべ)、筑紫国の胆狭山部(いさやまべ)を献上した。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年閏十二月是月条】
  • 宣化天皇4年12月5日

    欽明天皇の即位に伴い、引き続き大連となる。

    安閑天皇の御世以前から大連であったと思われる記述になっている。
    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十二月甲申条】
  • 欽明天皇元年9月5日

    欽明天皇難波祝津宮(なにわのはふりつのみや)行幸に大伴大連金村許勢臣稲持らと共に従う。

    天皇が諸臣に「どれだけの軍勢があれば新羅を討てるだろうか」と問うた。
    物部大連尾輿らが奏上して「少々の軍勢では容易く征することはできません。昔、男大迹天皇の六年に百済が使いを遣わして、任那の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あるしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請しました。大伴大連金村は要請のままに求めてきた地を譲渡しました。これを新羅は積年の怨みとしております。軽々しく討伐してはなりません」と。

    大伴大連金村住吉(すみのえ)の家にこもり、病と称して参朝しなかった。
    天皇は青海夫人勾子を遣わして慇懃に慰問させた。

    大連が恐縮して言うには「私が病とすることは他ではございません。私が任那を滅ばしたと諸臣が申しておりますので、恐怖で参朝できないのでございます」と。
    そして鞍馬(かざりうま)を使いに贈って厚く敬意を表した。
    青海夫人はあるままに奏上した。

    詔して「久しく忠誠を尽くしてきたのだ。人の噂を気にすることはない」と。
    遂に罪に問うことはなく、さらに厚遇するようになった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年九月己卯条】
  • 欽明天皇13年10月

    百済の聖明王西部(せいほう)姫氏(きし)達率怒唎斯致契らを遣わして釈迦仏の金銅像(かねのみかた)一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献上した。
    別に上表し、広く礼拝する功徳を賞賛して「この法は諸々の法の中でも最も勝れています。解り難く入り難く、周公・孔子がなお知り給うことが出来ませんでした。この法は無量無辺の福徳果報(いきおいむくい)を生じ、すなわち無上の菩提を成し、譬えば人が如意宝珠を懐いて思うがままになるように、この妙法の宝もまた同様です。祈願すること思うがままにして乏しいところはございません。遠くは天竺から三韓に至るまで、教えに従って尊敬しております。これにより百済の王臣は謹しんで陪臣怒唎斯致契を遣わして帝国(みかど)に伝え奉り、国内に流通させて、仏が『我が法は東に伝わる』と記すことを果たそうと思うのです」と。

    この日、天皇は聞き終わると歓喜踊躍し、使者に詔して「朕は昔よりこれまでに、未だかつてこのような妙法を聞いたことがない。しかし朕は自決しない」と。
    そして群臣一人一人に問うて「西国から伝わる仏の相貌は端厳で、未だかつて見たことがない。敬うべきかどうか」と。

    蘇我大臣稲目宿禰が奏上して「西の諸国では皆が敬います。豊秋(とよあき)日本(やまと)がどうして独り背きましょうか」と。
    物部大連尾輿・中臣連鎌子が同じく奏上して「我が国家、天下の王は、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬に祭り拝するを事とします。今改めて外の神を拝すれば、恐らく国神がお怒りになるでしょう」と。
    天皇は「それでは情願する稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」と言った。
    大臣は跪き受けて悦んだ。
    小墾田の家に安置して、懇ろに仏道を修める頼みとした。
    向原(むくはら)の家を清めて寺とした。

    後に国に疫病が流行って、民に若死する者が多く、治療することも出来なかった。
    物部大連尾輿・中臣連鎌子が同じく奏上して「過去の臣の意見を用いられずに、この病気・死者を招きました。以前に戻せば必ず慶事がございましょう。早く投げ棄てられて、後の福をお求めなさいませ」と。
    天皇は「申すままにせよ」と言った。

    有司は仏像を難波の堀江に投げ棄てた。また寺に火をつけて余すことなく焼いた。
    すると天に風と雲が無いのに急に大殿に火災がおこった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年十月条】