武烈天皇

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名前
  • 漢風諡号:武烈天皇(ぶれつてんのう, ぶれつてんわう)
  • 和風諡号:小泊瀨稚鷦鷯天皇【日本書紀】(おはつせのわかさざきのすめらみこと, をはつせわかさざ)小泊瀬稚鷦鷯天皇
  • 小泊瀨稚鷦鷯尊【日本書紀】(おはつせのわかさざきのみこと, をはつせわかさざ)小泊瀬稚鷦鷯尊
  • 小泊瀨天皇【日本書紀】(おはつせのすめらみこと, をはつせ)小泊瀬天皇
  • 小長谷若雀命【古事記】(おはつせのわかさざきのみこと, をはつせわかさざ
  • 泊瀨列城宮御宇天皇【先代旧事本紀】(はつせやにあしたしししす)泊瀬列城宮御宇天皇
  • 稚鷦鷯天皇校異【先代旧事本紀】
性別
男性
生年月日
( ~ 仁賢天皇7年1月3日)
没年月日
武烈天皇8年12月8日
  • 仁賢天皇にんけんてんのう【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条】
  • 春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこ【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条】
先祖
  1. 仁賢天皇
    1. 市辺押磐皇子
      1. 履中天皇
      2. 黒媛
    2. 荑媛
      1. 蟻臣
  2. 春日大娘皇女
    1. 雄略天皇
      1. 允恭天皇
      2. 忍坂大中姫命
    2. 童女君
      1. 和珥深目
配偶者
  • 皇后:春日娘子かすがのいらつめ【日本書紀 巻第十六 武烈天皇元年三月戊寅条】
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第25代天皇てんのう
出来事
  • 仁賢天皇の第一皇子として生まれる。母は春日大娘皇女


    長じて刑の理非分別を好み、法令に明るかった。
    日が暮れるまで朝政して、隠れた無実の罪を必ず見抜いた。訴えを処断することを得意とした。
    また頻りに悪事を行い、一つも善事を修めなかった。
    様々な酷刑を観覧しないことはなかった。
    国内に住む人は皆震え怖れた。

    【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇元年二月壬子条, 日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀】
  • 仁賢天皇7年1月3日

    立太子。

    【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇七年正月己酉条】
  • 仁賢天皇11年8月8日

    仁賢天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十五 仁賢天皇十一年八月丁巳条】
  • 仁賢天皇11年8月(8日 ~ 29日)

    大臣平群真鳥臣は国政を専らにして日本の王になろうとした。
    太子の為に宮を造る振りをして、出来上がると自ら住んだ。
    事々に驕慢となり、臣としての節度が無かった。

    太子は物部麁鹿火大連の娘の影媛を召し上げたいと思い、媒人に命じて影媛の家に向わせて会うことを約束した。
    影媛は既に真鳥大臣の子のと通じていたので、太子との約束を違えてしまうことを恐れ、答えて言うには「私は海柘榴市(つばきち)の巷でお待ち奉りたいと存じます」と。

    こうして太子は約束の場所に行こうとして近侍の舎人を遣わし、平群大臣の家に向わせて太子の命で官馬(つかさうま)を用意するように求めた。
    大臣はふざけて表向きには「官馬は誰の為に飼うものではございません。御命令に従います」と言ったが、久しく進上しなかった。
    太子は心中恨んだが、忍んで顔には出さなかった。

    果たして約束の場所に行って歌場(うたがき)歌場。此云宇多我岐。の人の中に立った。影媛の袖を取って立ち止まったり歩いたりして誘った。
    しばらくして鮪臣が来て、太子と影媛の間を押しのけて立った。
    太子は影媛の袖を放し、向きを変えて前に立つとの方を向いて歌を詠んだ。

    ()()()() 一本。以之裒世。易弥儺斗。 ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    が歌で答えた。

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    太子が歌を詠んだ。

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    鮪臣が歌で答えた。

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    太子が歌を詠んだ。

    ()()()()() ()()()()()()() 一本。以耶賦能之魔柯枳。易耶陛哿羅哿枳。 ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()

    太子が影媛に歌を贈った。

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    鮪臣影媛の為に歌で答えた。

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    太子はが既に影媛と通じていることを知った。
    父子の不敬の有様を知って顔を赤くして激怒した。
    この夜、速やかに大伴金村連の家に向い、兵を集めて策を練った。
    大伴連は数千の兵を率いて道を遮り、鮪臣乃楽山(ならやま)で殺した。
    ある書では影媛の家に泊り、その夜に殺されたという。

    この時に影媛は殺された場所に追って行って、その殺されるところを見た。
    驚き恐れて心を失い、悲涙が目に溢れた。そして遂に歌を作った。

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    こうして影媛は埋葬も終って家に帰ろうとするときに、むせび泣きして「苦しいことだなあ。今日我が愛しい夫を失ったことは」と言うと、悲しみに打ちひしがれた。
    ふさぎ込んで歌を詠んだ。

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    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年八月条】
  • 仁賢天皇11年11月11日

    大伴金村連が太子に言うには「真鳥の賊をお撃ちなさいませ。御命令があれば討伐致します」と。
    太子が言うには「天下が乱れようとしている。世に優れた人物でなければ治めることはできない。よくこれを治める者はであるか」と。
    そして共に相談した。

    大伴大連は兵を率いて自ら将として大臣の家を囲み、火を放って焼いた。
    その指揮に兵は雲のように靡いた。
    真鳥大臣は事の不達成を恨み、身の危険が避けられない事を知った。
    計画は頓挫して望みは絶え、広く塩を指差して呪った。
    遂に殺された。殺戮は子弟にまで及んだ。

    呪った時に角鹿(つぬが)の海の塩のみを忘れて呪わなかった。
    それで角鹿の塩を天皇の大御物とし、他の海の塩を天皇は忌むのである。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十一月戊子条】
  • 仁賢天皇11年12月

    大伴金村連が賊の平定を終えて太子に政を返した。
    尊号を奉ろうとして言うには「今億計天皇仁賢天皇の御子は陛下のみでございます。人民がより所とするは二つとございません。また皇天の威光を頼りにして凶党を払い除きました。英略雄断は天威(あまついきおい)天禄(あまつしるし)を盛んにしました。日本(やまと)には主が必要でございます。日本の主は陛下以外に誰がおりましょうか。伏して願わくは、陛下、天地の神に答えて大命を弘め宣べ、日本をお照らし下さい。大いに銀郷(たからのくに)をお受け下さい」と。

    ここに太子は司に命じて、壇場(たかみくら)泊瀬列城(はつせのなみき)に設けて天皇に即位した。
    遂に都を定めた。

    この日、大伴金村連大連とする。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十二月条】
    • 長谷之列木宮(はつせのなみきのみや)にて天下を治めること八年。

      【古事記 下巻 武烈天皇段】
    • 仁賢天皇11年11月

      天皇に即位して都を定めた。列城宮(なみきのみや)という。

      【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十一月条】
  • 武烈天皇元年3月2日

    春日娘子を立てて皇后とする。娘子の父は未だ詳らかでない。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇元年三月戊寅条】
    • 武烈天皇元年3月2日

      物部麻佐良連公大連とする。

      【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 武烈天皇元年三月戊寅条】
  • 武烈天皇2年9月

    妊婦の腹を刳ってその胎を観察する。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇二年九月条】
  • 武烈天皇3年10月

    人の生爪を抜いて芋を掘らせる。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇三年十月条】
  • 武烈天皇3年11月

    大伴室屋大連に詔して「信濃国の男丁(よほろ)徴集された男子。を起こして城を水派邑(みまたのむら)に作れ」と。
    これを城上(きのえ)という。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇三年十一月条】
  • 武烈天皇3年11月

    百済の意多郎が卒する。
    高田丘上(たかたのおかのえ)に葬る。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇三年十一月是月条】
  • 武烈天皇4年4月

    人の頭髪を抜いて木の末に登らせ、木の根元を切り倒して登った者を落として殺すことを楽しむ。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年四月条】
  • 武烈天皇4年

    百済の末多王は無道で人民を虐げた。
    国人は遂に王を捨てて島王を立てた。これを武寧王という。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条】
    • 末多王は無道で人民を虐げた。
      国人は共に王を捨てて武寧王を立てた。
      諱は斯麻王。これは琨支王子の子で、末多王の異母兄である。
      琨支(やまと)に向う時に筑紫島で斯麻王が生まれた。島から送り還した。
      (みやこ)に至らず、島で産まれたのでこのように名付けた。
      各羅(かから)の海の中に主島(にりむせま)がある。王が産まれた島である。
      それで百済人は名付けて主島と名付けた。

      今考えるに島王蓋鹵王の子である。末多王琨支王の子である。
      これを異母兄というのは未だ詳らかでない。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条 百済新撰云】
  • 武烈天皇5年6月

    人を溜池の樋に入れて外に流れ出るところを三刃の矛を持って刺し殺すことを楽しむ。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇五年六月条】
  • 武烈天皇6年9月1日

    詔して「国を伝える(まつりごと)は子を立てることを貴しとする。朕には後嗣が無い。何を以って名を伝えようか。過去の天皇の例によって小泊瀬舎人(おはつせのとねり)を置き、代わりの号として万世に忘れらないようにせよ」と。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇六年九月乙巳朔条】
    • この天皇には太子が無かった。
      それで御子代(みこしろ)として小長谷部(おはつせべ)を定めた。

      【古事記 下巻 武烈天皇段】
  • 武烈天皇6年10月

    百済国が麻那君を遣わして調(みつき)を奉った。
    天皇は百済が長く貢物を修めなかったことを思い、留めて返さなかった。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇六年十月条】
  • 武烈天皇7年2月

    人を木に登らせて弓で射落として笑う。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇七年二月条】
  • 武烈天皇7年4月

    百済王斯我君を遣わして調(みつき)を奉った。
    別に奏上して「前に調を奉った麻那は百済国主の骨族ではございません。それで謹んで斯我を遣わして朝廷に奉ります」と。
    後に子ができて法師君という。これは倭君(やまとのきみ)の先祖である。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇七年四月条】
  • 武烈天皇8年3月

    女を裸にして平板の上に座らせた。馬を引いてきて面前で交尾させた。観女の陰部を調べて湿っている者は殺し、湿っていない者は官婢とした。これを楽しみとした。

    この頃に池を掘って苑を造って禽獣を満たした。猟を好んで。犬を走らせて馬を試した。
    出入りが気ままで大風・豪雨を避けずに衣を温かくして人民が凍えていることを忘れた。
    美食して天下の飢えを忘れた。
    大いに侏儒(ひきひと)倡優(わざおき)を集めて淫らな音楽を奏し、奇怪な遊戯を設けてふしだらな騒ぎをほしいままにした。
    日夜常に宮人と酒に溺れ、錦の織物を席に敷いた。
    綾や紈白絹を着る者が多かった。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇八年三月条】
  • 武烈天皇8年12月8日

    列城宮(なみきのみや)で崩じる。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇八年十二月己亥条】
  • 継体天皇2年10月3日

    傍丘磐杯丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二年十月癸丑条】
    • 御陵は片岡之石坏岡(かたおかのいわつきのおか)にある。

      【古事記 下巻 武烈天皇段】
    • 継体天皇2年10月3日

      傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのおかのみささぎ)に葬られる。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 継体天皇二年十月癸丑条】