武寧王

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名前
  • 武寧王【日本書紀】(ぶねいおう, むねいわう)
  • 嶋君【日本書紀】(せまきし)島君
  • 嶋王【日本書紀】(せまきし)島王
  • 諱:斯麻王【日本書紀】(しまきし)
キーワード
  • 後裔は左京和朝臣(やまとのあそみ)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
  • ・・・
    • 蓋鹵王がいろおう【日本書紀 巻第十四 雄略天皇五年六月丙戌朔条】
    • 琨支王子こんきせしむ【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条 百済新撰云】
  • ・・・
    • 淳陀じゅんだ【母:不明】
出来事
  • ・・・
    • 461年(4月26日 ~ 5月24日)

      百済の加須利君蓋鹵王)は人づてに池津媛適稽女郎(ちゃくけいえはしと))が焼き殺されたことを聞き、議って言うには「昔、女を献上して采女とした。しかし無礼にも我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と。
      そしてその弟の軍君昆支君)に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と告げた。
      軍君は「君上の命を違えることは出来ません。願わくは君の(みめ)を賜り、その後にお遣わし下さい」と答えた。
      加須利君は孕んだ婦を軍君に嫁がせて言うには「我が孕める婦は臨月に当たる。もし途中で出産したら、一つの船に乗せて、どこからでも速やかに国に送り返してくれ」と。
      そして共に別れの言葉を述べて(みかど)に遣わした。

      【日本書紀 巻第十四 雄略天皇五年四月条】
  • ・・・
    • 461年6月24日

      孕んでいた婦は加須利君の言ったように筑紫の各羅島(かからのしま)で子を産んだ。
      それでこの子の名を島君という。
      そこで軍君は一つの船で島君を国に送った。これが武寧王である。
      百済人はこの島を主島(にりむせま)という。

      【日本書紀 巻第十四 雄略天皇五年六月丙戌朔条】
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    • (502年1月24日 ~ 503年2月11日)

      百済の末多王は無道で人民を虐げた。
      国人は遂に王を捨てて島王を立てた。これを武寧王という。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条】
    • 末多王は無道で人民を虐げた。
      国人は共に王を捨てて武寧王を立てた。
      諱は斯麻王。これは琨支王子の子で、末多王の異母兄である。
      琨支(やまと)に向う時に筑紫島で斯麻王が生まれた。島から送り還した。
      (みやこ)に至らず、島で産まれたのでこのように名付けた。
      各羅(かから)の海の中に主島(にりむせま)がある。王が産まれた島である。
      それで百済人は名付けて主島と名付けた。

      今考えるに島王は蓋鹵王の子である。末多王琨支王の子である。
      これを異母兄というのは未だ詳らかでない。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条 百済新撰云】
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    • 504年(10月24日 ~ 11月22日)

      百済国が麻那君を遣わして調(みつき)を奉った。
      武烈天皇は百済が長く貢物を修めなかったことを思い、留めて返さなかった。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇六年十月条】
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    • 505年(5月19日 ~ 6月16日)

      百済王が斯我君を遣わして調(みつき)を奉った。
      別に奏上して「前に調を奉った麻那は百済国主の骨族ではございません。それで謹んで斯我を遣わして朝廷に奉ります」と。
      後に子ができて法師君という。これは倭君(やまとのきみ)の先祖である。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇七年四月条】
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    • 509年(1月7日 ~ 2月4日)

      南海中の耽羅(たむら)済州島に存在した国。人が初めて百済国に通う。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇二年十二月条】
  • ・・・
    • 509年(3月7日 ~ 4月4日)

      継体天皇が使いを百済に遣わした。
      任那(みまな)日本県邑(やまとのあがたのむら)に住む、百済から逃亡してきた者、戸籍から漏れた者の三,四世までさかのぼって調べて、百済に送って戸籍をつけた。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇三年二月条】
    • 久羅麻致支弥が日本より来たる。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇三年二月条 百済本記云】
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    • 512年5月7日

      継体天皇穂積臣押山を百済に遣わして筑紫国の馬四十匹を賜る。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年四月丙寅条】
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    • (512年12月24日 ~ 513年1月21日)

      百済が使いを遣わして朝貢した。

      別に上表文を奉って任那国の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あろしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請した。
      哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
      大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
      物部大連麁鹿火を勅使とした。

      物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇応神天皇に授けました。それで大后気長足姫尊神功皇后と大臣武内宿禰が国毎に官家(みやけ)を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
      大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
      その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
      大連は諌めに従った。

      こうして勅使を改めた。
      賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。

      大兄皇子後の安閑天皇。は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
      驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝応神天皇の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
      日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
      使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。

      ここに流言があって「大伴大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済から賄賂を受けている」と。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】
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    • 513年(7月19日 ~ 8月16日)

      百済が姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わして、穂積臣押山『百済本記云。委意斯移麻岐弥』とある。#に副えて、五経博士段楊爾を献上した。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年六月条】
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    • 513年10月11日

      百済の太子淳陀が薨じる。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年八月戊申条】
  • ・・・
    • 513年12月17日

      朝廷百済(くだら)姐弥文貴将軍が斯羅(しらき)汶得至安羅(あら)辛已奚賁巴委佐伴跛(はへ)既殿奚竹汶至らを引き連れ、恩勅を受けて己汶(こもん)滞沙(たさ)を百済国に賜った。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十一月乙卯条】
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    • 515年3月4日

      百済の使者文貴将軍らが帰国を希望した。
      それで勅して物部連『闕名』とあるが、『百済本記云。物部至至連』とある。を副えて帰国させた。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月丁丑条】
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    • 516年(6月16日 ~ 7月14日)

      百済が前部木刕不麻甲背を遣わして、物部連らを己汶(こもん)で迎えて労い、国に引き入れた。
      群臣はそれぞれ衣裳・斧鉄・帛布を出し、国の産物に加えて朝廷に積み置いた。
      慰問は慇懃で賞禄は優れていた。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年五月条】
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    • 516年(10月12日 ~ 11月9日)

      百済が州利即次将軍を遣わして、物部連に副えて渡来させ、己汶(こもん)の地を賜わったことを感謝した。

      別に五経博士漢高安茂を献上して、博士段楊爾の代わりとしたいと願い出たので、願いのままに代えさせた。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年九月条】
  • ・・・
    • 516年10月25日

      百済が灼莫古将軍・日本(やまと)斯那奴阿比多を遣わして、高麗の使い安定らに副えて来朝させ、好みを結んだ。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇十年九月戊寅条】
  • ・・・
    • 523年(5月30日 ~ 6月28日)

      百済国王武寧が薨じる。

      【日本書紀 巻第十七 継体天皇十七年五月条】
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