次旱岐夷呑奚

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名前
  • 次旱岐夷呑奚【日本書紀】(しかんきいとんけい)
生年月日
( ~ 541年6月9日)
没年月日
(541年5月11日 ~ )
出来事
  • 541年(5月11日 ~ 6月9日)

    安羅(あら)の次旱岐夷呑奚・大不孫久取柔利加羅(から)上首位古殿奚卒麻(そちま)旱岐(かんき)散半奚(さんはんげ)の旱岐の子・多羅(たら)下旱岐夷他斯二岐(しにき)の旱岐の子・子他(した)の旱岐らと、任那の日本府の吉備臣「闕名字」とある。が百済に赴いて詔書を承った。

    百済の聖明王が任那の旱岐らに言うには「日本の天皇の詔するところは、もっぱら任那を再建せよということである。今どのような策を用いて任那を再建できようか。各々忠を尽くして御心を伸べて安んじようではないか」と。

    任那の旱岐らが答えて言うには「再三新羅と議りましたが返答はありません。また図る旨を新羅に告げても返答はないでしょう。今皆で使いを遣わして天皇に奏上しましょう。任那を再建する大王のご意思は慎んで承ります。誰が敢えて言葉を挟みましょう。しかし任那は新羅は国境を接しています。恐れることは卓淳(とくじゅん)らと同じ禍「『ら』とは㖨己呑(とくことん)・加羅(から)をいう。意は卓淳らの国に亡国の禍があるからである」とある。を被ることです」と。

    聖明王が言うには「昔、我が先祖の速古王貴首王の御世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが初めて使いを遣わして相通じて厚く親交を結んだ。子弟のように常に隆盛を願った。しかし今新羅に欺かれて、天皇の怒りを買い、任那から恨まれることになったのは寡人(おのれ)の過ちである。私は深く懲り悔いて、下部(かほう)中佐平麻鹵城方(じょうほう)甲背昧奴らを遣わして加羅に赴き、任那の日本府に会して共に盟約した。以後は思いを繋げて、任那を再建することを朝夕忘れたことはない。今天皇が『速やかに任那を再建せよ』と詔なされたので、お前たちと共に議って任那国を再建したいと思う。善きに図らえ。また任那の国境に新羅を呼んで、話を聞くかそうでないかを問う。そして皆で使いを遣わして天皇に奏上し、慎んでご教示を承ろう。もし使いが帰還しないうちに新羅が隙を伺って任那に侵攻すれば、私は救援に向う。心配はいらない。しかしよく守り備えて警戒を忘れてはならない。別にお前たちが言う『卓淳らと同じ禍を恐れる』とは、新羅が自らの強さで為したことではない。かの㖨己呑は加羅と新羅の国境で頻りに攻め敗られた。任那も救援することが出来ず、これによって亡んだ。かの南加羅(ありひしのから)は狭小で卒に備えることが出来ず、身を寄せる所も知らず、これによって亡んだ。かの卓淳は上下が離れ離れで、主自ら新羅に内応し、これによって亡んだ。これを見ると三国の敗れた理由がよく分かる。昔、新羅が高麗に援助を求め、任那と百済を攻撃したが勝てなかった。どうして新羅が独力で任那を滅ぼせようか。今、寡人とお前たちの力と心を合わせ、天皇の霊威に頼れば、任那は必ず再建できる」と。

    そして各々に物を贈り、皆喜んで帰った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年四月条】