椎根津彦

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名前
  • 椎根津彥【日本書紀】しいねつひこ, しねつ椎。此云辞毘。)椎根津彦
  • 槁根津日子【古事記】(さおねつひこ, さをねつ
  • 珍彥【日本書紀】うずひこ, うづ珍彥。此云于砮毗故。)珍彦
  • 椎根津彥命【先代旧事本紀,椎根津彦神社】(しいねつひこのみこと, しねつ)椎根津彦命
  • 珍彦命【椎根津彦神社】(うずひこのみこと)
  • 神知津彥命【新撰姓氏録抄】(かしりつ)神知津彦命
  • 神知津彥命【新撰姓氏録抄】(かしりつ, かちつ)神知津彦命
  • 神知津彥【新撰姓氏録抄】(かしりつ, かちつ)神知津彦
  • 宇豆彥【新撰姓氏録抄】(うずひこ, うづ)宇豆彦
キーワード
  • 倭直部(やまとのあたいべ)始祖【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年十月辛酉条】
  • 倭国造等之祖【古事記 中巻 神武天皇段】
  • 大和氏遠祖【古語拾遺 神武天皇段】
  • 大倭連等祖【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神武天皇二年二月乙巳条】
  • 大和直祖【先代旧事本紀 巻第十 国造本紀】
  • 後裔は右京青海首(あおみのおびと)・右京倭太(やまとのおお)・大和国大和宿禰(やまとのすくね)・河内国等禰直(とねのあたい)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 甲寅年10月5日)
没年月日
(神武天皇2年2月2日 ~ )
  • 武位起命たけいこのみこと【椎根津彦神社 由緒】
先祖
  1. 武位起命
    1. 彦火火出見尊
      1. 天津彦彦火瓊瓊杵尊
      2. 鹿葦津姫
    2. 玉依姫命
      1. 海神
      2. unknown
  2. unknown
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 倭国造やまとのくにのみやつこ【日本書紀 巻第三 神武天皇二年二月乙巳条】
出来事
  • 甲寅年10月5日

    神武天皇速吸之門(はやすいなと)に着いた時、一人の漁人(あま)が船に乗って来た。
    天皇は呼んで「お前は誰か」と尋ねた。答えて「私は国神で珍彦といいます。曲浦(わだのうら)で釣りをしていましたが、天神の御子がお出でになられるとお聞き致しました。それでお迎え奉りました」と。
    また「お前は私の為の導きとなってくれるか」と尋ねた。答えて「お導き致します」と。
    天皇は勅して漁人に椎竿の先を渡した。そして皇船に引き入れて海導者(うみのみちびきもの)とした。それで名を賜って椎根津彦とした。

    【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 甲寅年十月辛酉条】
    • 亀の甲に乗って釣りをしつつ、袖を振ってやって来る人に速吸門(はやすいのと)で出会った。
      呼び寄せて「お前は誰か」と問うと、「私は国つ神です」と答えた。また、「海路を知っているか」と問うと、「よく存じています」と答えた。また、「私に従い仕えるか」と問うと、「お仕え致します」と答えた。それで棹を指し渡して船に引き入れた。そして槁根津日子という名を賜った。

      【古事記 中巻 神武天皇段】
    • 神日本磐余彦天皇日向国(ひむかのくに)から大倭洲(やまとのくに)に向い、速吸門(はやすいなと)に至った時に、漁人が船に乗ってやってきた。
      天皇が「お前は誰だ」と問うと、答えて「私は国神でございます。名は宇豆彦と申します。天神の御子がいらっしゃると聞いて、お迎えに参ったのでございます」と。
      そして皇船を引き入れて海導(うみのしるべ)とした。
      それで神知津彦と名付けた。ある名は椎根津彦。
      よく軍機の策を献じたことを天皇は誉め、大倭国造に任じた。
      これが大倭(やまと)校異:大倭直または大倭宿禰。の始祖である。

      【新撰姓氏録抄 第二帙 第十七巻 大和国神別 地祇 大和宿禰条】
  • 戊午年9月5日

    神武天皇は椎根津彦に着古した衣服と蓑笠を着せて老父に似せた。また弟猾に箕を着せて老婆に似せた。そして勅して「お前たち二人は天香山(あめのかぐやま)に行き、密かに頂きの土を取ってきなさい。天業の成否はお前たちで占おう。慎重に行いなさい」と言った。
    このとき賊兵は道にあふれて通ることができなかった。椎根津彦は神意をうかがって「我が君がよくこの国を平定できるならば、行く道よ、自ずから開け。そうでなければ、必ず賊は防ぐだろう」と言った。言い終ると直ちに出かけた。
    賊は群がり、二人を見ると大いに笑い、「醜い老人どもだ」と言って道を開けて去った。二人は山に着くと土を取って帰った。
    天皇は大いに喜び、この埴土で八十平瓮(やそひらか)天手抉八十枚(あめのたくじりやそち)手抉。此云多衢餌離。・厳瓮を造り、丹生(にふ)の川上で天神地祇を祭った。その菟田川の朝原に水沫のように凝り固まる所があった。
    天皇はまた神意をうかがって「私は今まさに八十平瓮で、水無しの飴を作ろう。成功すれば、私は必ず武器を使わずに天下を平定できる」と言った。そして飴を作ると、飴は自ずと出来た。
    また神意をうかがって言うには「私は今まさに厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が大小なく酔って流れることが、(まき)の葉が浮き流れるようであれば、私は必ずこの国を平定出来るであろう。もしそうでなければ、成し遂げることは出来ないであろう」と。そして瓮を川に沈めた。その口は下を向いた。しばらくすると魚がすべて浮き出て口をパクパク開いた。椎根津彦がこれを報告した。
    天皇は大いに喜び、丹生の川上の五百箇真坂樹(いおつのまさかき)を根こぎにして、諸神を祭った。これより始めて厳瓮の置物を置くようになった。

    【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年九月戊辰条】
  • 戊午年11月7日

    神武天皇弟磯城を遣わして利害を示したが、兄磯城らは愚かにも謀を守り、承伏しなかった。
    時に椎根津彦が謀って言うには「今はまず私が女軍(めいくさ)を遣わして忍坂(おしさか)の道に出ます。賊はこれを見て、必ず精鋭を出すでしょう。私は強兵を馳せて直ちに墨坂(すみさか)を目指し、菟田(うだ)川の水を取って、その炭火にそそぎ、驚いている間に不意をついて出れば、破ることが出来るでしょう」と。

    【日本書紀 巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年十一月己巳条】
  • 椎根津彦は、皇舟を導いた功績を香山(かぐやま)の頂に表した。

    【古語拾遺 神武天皇段】
  • 神武天皇2年2月2日

    神武東征の功により、倭国造に任ぜられる。

    【日本書紀 巻第三 神武天皇二年二月乙巳条】
    • 神武天皇2年2月2日

      椎根津彦に詔して「お前は皇舟を迎えて導いた。功績を香山(かぐやま)の頂きに表した。よって誉めて倭国造とする」と。その国造は、これより始まった。

      【先代旧事本紀 巻第七 天皇本紀 神武天皇二年二月乙巳条】
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