有至臣

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名前
  • 有至臣【日本書紀】(うち
  • 內臣【日本書紀】(うち)内臣
生年月日
( ~ 欽明天皇14年6月29日)
没年月日
(欽明天皇15年12月1日 ~ )
出来事
  • 欽明天皇14年6月

    欽明天皇内臣「闕名」とある。を遣わして百済に使いする。そして良馬二匹・同船(もろきぶね)二隻・弓五十張・箭五十具を賜う。
    勅して「請すところの兵は王のままに用いよ」と。
    別に勅して「医博士・易博士・暦博士らは当番制にして参上退下せよ。今上件の役職の人はまさに交代の時期に当る。帰還する使いに付けて交代せよ。また卜書・暦本・様々な薬を送るように」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年六月条】
  • 欽明天皇15年1月9日

    百済中部(ちゅうほう)木刕施徳文次前部(ぜんほう)施徳曰佐分屋らを筑紫に遣わして、内臣・佐伯連らに言うには「徳率次酒杆率塞敦らが去年の閏月の四日に参りましたときに『「臣らとは内臣をいう」とある。らは来年の正月に行くであろう』と仰りましたが確かではありません。お越しになるのでしょうか。また軍の数はどれ程でしょうか。少しでも話を聞いて予め陣営を設置したいと思っております」と。

    また別に言うには「畏き天皇の詔を承り、筑紫に詣でて賜る軍を見送ることの喜びは他と比べようがございません。今年の役は以前より甚だ危険でございますので、どうか軍の派遣は正月に間に合うようにお願い申し上げます」と。

    内臣は勅を承って「すぐに援軍の数一千・馬一百疋・船四十隻を遣わす」と返答した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年正月丙申条】
  • 欽明天皇15年12月

    百済が下部(かほう)杆率汶斯干奴を遣わし、上表して「百済の王臣及び安羅にいる倭の諸臣達、任那諸国の旱岐らが申し上げます。思い見れば斯羅(しらき)は無道にて天皇を恐れず、(こま)と心を同じくして海北の宮家を損ない滅ぼそうとしています。臣らは共に議り、有至臣らを遣わし、兵を乞うて斯羅を征伐しようとしました。そして天皇が派遣された有至臣が軍を率いて六月に到着しました。臣らは深く喜びました。十二月九日を以って斯羅を攻めました。臣は先ず東方軍の指揮官物部莫哥武連を遣わし、その方の兵士を率いさせ、函山城を攻めさせました。有至臣が連れてきた竹斯物部莫奇委沙奇は火箭を射るのに優れ、天皇の威霊を蒙り、九日の夕には城を焼いて落しました。それで単使(ひとえつかい)馳船(ときふね)を遣わして奏上します」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条】