蘇我稲目

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名前
  • 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】が)
  • 姓(カバネ):臣(お
  • 名:稻目【日本書紀】(いな)稲目
  • 蘇我稻目宿禰【日本書紀】いなすくね)蘇我稲目宿禰
  • 蘇我大臣稻目宿禰【日本書紀】(そがのおおおみいなめのすくね, おほおいなすくね)蘇我大臣稲目宿禰
  • 蘇我稻目宿禰大臣【日本書紀】(そがのいなめのすくねのおおおみ, いなすくねおほお)蘇我稲目宿禰大臣
  • 宗賀之稻目宿禰大臣【古事記】(そがのいなめのすくねのおおおみ, いなすくねおほお)宗賀之稲目宿禰大臣
  • 稻目宿禰【日本書紀】(いなすくね)稲目宿禰
  • 稻目宿禰大臣【古事記】(いなめのすくねのおおおみ, いなすくねおほお)稲目宿禰大臣
  • 蘇我伊奈米宿禰大臣【上宮聖徳法王帝説】(そがのいなめのすくねのおおおみ, いなすくねおほお
  • 宗我稻目足尼大臣【上宮聖徳法王帝説】(そがのいなめのすくねのおおおみ, いなすくねおほお)宗我稲目足尼大臣
  • 巷奇大臣【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】そがのおおおみ, おほお巷奇。蘇我也。
  • 伊奈米足尼【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(いなすくね)
キーワード
  • 後裔は左京桜井朝臣(さくらいのあそみ)・左京箭口朝臣(やぐちのあそみ)・右京田中朝臣(たなかのあそみ)・右京小治田朝臣(おはりたのあそみ)・右京岸田朝臣(きしたのあそみ)・右京久米朝臣(くめのあそみ)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 宣化天皇元年2月1日)
没年月日
欽明天皇31年3月1日
  • 蘇我馬背そがのうませ【紀氏家牒逸文】
先祖
  1. 蘇我馬背
    1. 蘇我韓子
      1. 蘇我満智
配偶者
  • 美女媛おみなひめ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条】
  • 吾田子あたこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条】
  • 蘇我馬子そがのうまこ【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十四年五月丁未条】【母:不明】
  • 堅塩媛きたしひめ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:不明】
  • 小姉君おあねのきみ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:不明】
  • 境部摩理勢さかいべのまりせ【母:不明】
  • 石寸名いしきな【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】【母:不明】
  • 小祚臣おそのおみ【新撰姓氏録抄 第一帙 第四巻 右京皇別上 岸田朝臣条】【母:不明】
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大臣おおおみ【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年二月壬申朔条】
出来事
  • 安閑天皇2年12月

    宣化天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第十八 宣化天皇即位前紀 安閑天皇二年十二月条】
  • 宣化天皇元年2月1日

    大臣となる。

    【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年二月壬申朔条】
  • 宣化天皇元年5月1日

    宣化天皇から尾張国の屯倉の籾を筑紫国に運ぶよう命じられる。

    【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年五月辛丑朔条】
  • 宣化天皇4年12月5日

    欽明天皇の即位に伴い、引き続き大臣となる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十二月甲申条】
  • 欽明天皇6年9月

    百済が丈六の仏像を造った。

    願文を作って言うには「聞けば丈六の仏を造る功徳は甚大。いま敬ってお造り奉ります。この功徳を以って願わくは天皇が勝れた徳を得られ、天皇のお治めになられる諸国が福祐を蒙ること。また願わくは天下の一切衆生が解脱を蒙ること。それでお造り奉った次第でございます」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年九月是月条】
    • 宣化天皇3年5月

      志癸島天皇欽明天皇。の御世の戊午年十月十二日に百斉国主明王が始めて仏像・経教、并せて僧等を奉った。
      勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆させた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 欽明天皇13年10月

    百済の聖明王西部(せいほう)姫氏(きし)達率怒唎斯致契らを遣わして釈迦仏の金銅像(かねのみかた)一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献上した。
    別に上表し、広く礼拝する功徳を賞賛して「この法は諸々の法の中でも最も勝れています。解り難く入り難く、周公・孔子がなお知り給うことが出来ませんでした。この法は無量無辺の福徳果報(いきおいむくい)を生じ、すなわち無上の菩提を成し、譬えば人が如意宝珠を懐いて思うがままになるように、この妙法の宝もまた同様です。祈願すること思うがままにして乏しいところはございません。遠くは天竺から三韓に至るまで、教えに従って尊敬しております。これにより百済の王臣は謹しんで陪臣怒唎斯致契を遣わして帝国(みかど)に伝え奉り、国内に流通させて、仏が『我が法は東に伝わる』と記すことを果たそうと思うのです」と。

    この日、天皇は聞き終わると歓喜踊躍し、使者に詔して「朕は昔よりこれまでに、未だかつてこのような妙法を聞いたことがない。しかし朕は自決しない」と。
    そして群臣一人一人に問うて「西国から伝わる仏の相貌は端厳で、未だかつて見たことがない。敬うべきかどうか」と。

    蘇我大臣稲目宿禰が奏上して「西の諸国では皆が敬います。豊秋(とよあき)日本(やまと)がどうして独り背きましょうか」と。
    物部大連尾輿中臣連鎌子が同じく奏上して「我が国家、天下の王は、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬に祭り拝するを事とします。今改めて外の神を拝すれば、恐らく国神がお怒りになるでしょう」と。
    天皇は「それでは情願する稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」と言った。
    大臣は跪き受けて悦んだ。
    小墾田の家に安置して、懇ろに仏道を修める頼みとした。
    向原(むくはら)の家を清めて寺とした。

    後に国に疫病が流行って、民に若死する者が多く、治療することも出来なかった。
    物部大連尾輿中臣連鎌子が同じく奏上して「過去の臣の意見を用いられずに、この病気・死者を招きました。以前に戻せば必ず慶事がございましょう。早く投げ棄てられて、後の福をお求めなさいませ」と。
    天皇は「申すままにせよ」と言った。

    有司は仏像を難波の堀江に投げ棄てた。また寺に火をつけて余すことなく焼いた。
    すると天に風と雲が無いのに急に大殿に火災がおこった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年十月条】
  • 欽明天皇14年7月4日

    欽明天皇の勅を受け、王辰爾に船の税を記録させる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年七月甲子条】
  • 欽明天皇16年7月4日

    穂積磐弓臣ら共に派遣されて、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいのみやけ)を置く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十六年七月壬午条】
  • 欽明天皇17年7月6日

    備前(きびのみちのくち)児島郡(こじまのこおり)に屯倉を置くように命じられる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年七月己卯条】
  • 欽明天皇17年10月

    倭国の高市郡(たけちのこおり)韓人大身狭屯倉(からひとのおおむさのみやけ)「ここで言う韓人とは百済のことである」とある。高麗人小身狭屯倉(こまひとのおむさのみやけ)を置く。
    紀国に海部屯倉(あまのみやけ)を置く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年十月条】
    • 各地の韓人を大身狭屯倉の田部とする。
      高麗人を小身狭屯倉の田部とする。
      これは即ち韓人・高麗人を田部としたので屯倉の名としたのである。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年十月条 一本云】
  • 欽明天皇23年8月

    大将軍大伴狭手彦高麗(こま)を打ち破った。
    狭手彦(よろい)二領・金飾刀二口・銅鏤鍾(あかがねのえりたるかね)三口・五色の幡二竿・美女媛「媛は名である」とある。・その従女吾田子を蘇我稲目宿禰大臣に送った。
    大臣は二女を召し入れて妻とし、軽曲殿(かるのまがりどの)に置いた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条】
  • 欽明天皇31年3月1日

    薨じる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年三月甲申朔条】