姐弥文貴

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名前
  • 姐彌文貴【日本書紀】(さみもんき, さみもんくゐ)姐弥文貴
  • 文貴【日本書紀】(もんき, もんくゐ)
生年月日
( ~ 513年8月16日)
没年月日
(515年3月4日 ~ )
出来事
  • 513年(7月19日 ~ 8月16日)

    百済が姐弥文貴将軍・州利即爾将軍を遣わして、穂積臣押山に副えて、五経博士段楊爾を献上した。

    別に奏上して「伴跛国(はへのくに)が我が国の己汶(こもん)の地を略奪しました。伏して願わくは、天恩によって本属に還付して頂きたいと存じます」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年六月条】
  • 513年12月17日

    朝廷に百済(くだら)の姐弥文貴将軍が斯羅(しらき)汶得至安羅(あら)辛已奚賁巴委佐伴跛(はへ)既殿奚竹汶至らを引き連れ、恩勅を受けて己汶(こもん)滞沙(たさ)を百済国に賜った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇七年十一月乙卯条】
  • 515年3月4日

    百済の使者文貴将軍らが帰国を希望した。
    それで勅して物部連『闕名』とあるが、『百済本記云。物部至至連』とある。を副えて帰国させた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月丁丑条】
  • 515年(4日 ~ 30日)

    沙都島(さとせま)巨済島に至る。
    伝え聞くところによると、伴跛(はへ)の人は恨みを抱き、悪事を図り、力を恃みに邪なことをほしいままにした。
    それで物部連は水軍五百を率いて直ちに帯沙江(たさのえ)に赴いた。
    文貴将軍は新羅を通って帰国した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇九年二月是月条】