天津彦彦火瓊瓊杵尊

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  • 天津彥彥火瓊瓊杵尊【日本書紀】(あまつにに, あまつにに)天津彦彦火瓊瓊杵尊
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性別
男神
  • 栲幡千千姫たくはたちぢひめ【日本書紀 巻第二 神代下第九段】
    • 玉依姫命たまよりひめのみこと【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第七 一云】
    • 丹舄姫にくつひめ【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第七 一云】
先祖
  1. 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
    1. unknown
    2. 天照大神
      1. 伊奘諾尊
      2. 伊奘冉尊
  2. 栲幡千千姫
    1. 高皇産霊尊
配偶者
  • 鹿葦津姫かしつひめ【日本書紀 巻第二 神代下第九段】
  • ・・・
  • 火闌降命ほのすそりのみこと【日本書紀 巻第二 神代下第九段】【母:鹿葦津姫かしつひめ木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ)】
  • 彦火火出見尊ひこほほでみのみこと【日本書紀 巻第二 神代下第九段】【母:鹿葦津姫かしつひめ木花之佐久夜毘売このはなのさくやびめ)】
  • 火明命ほあかりのみこと【日本書紀 巻第二 神代下第九段】【母:鹿葦津姫かしつひめ
称号・栄典とても広〜い意味です。
出来事
  • 天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の女の栲幡千千姫を娶り、天津彦彦火瓊瓊杵尊を生んだ。それで皇祖高皇産霊尊は特に可愛がって大事に育てた。

    遂に皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国(あしはらのなかつくに)の主にしたいと思った。
    しかしその地には、蛍火のように輝く神や、騒がしくて従わない神が多くいた。また草木はよく物を言っておびやかした。
    それで高皇産霊尊は八十諸神を召し集めて、「私は葦原中国の邪鬼を払い平らげたいと思う。誰を遣わすのがよいだろうか。諸神は知っていることを隠してはならぬぞ」と尋ねた。皆は「天穂日命は神の中で傑出して御座います。お試しになるのがよいかと存じます」と言った。
    そこで皆の言葉に順って、天穂日命を送って平定させた。しかしこの神は、大己貴神におもねり媚びて、三年間復命しなかった。
    それでその子の大背飯三熊之大人、またの名は武三熊之大人を遣わしたが、これもまたその父に順って復命しなかった。
    それで高皇産霊尊はまた諸神を集めて誰を遣わすかを尋ねた。皆は「天国玉の子の天稚彦は壮士で御座います。お試しになるのがよいかと存じます」と言った。
    そこで高皇産霊尊天稚彦天鹿児弓(あまのかごゆみ)天羽羽矢(あまのははや)を賜って遣わした。この神もまた忠誠ではなかった。
    到着すると、顕国玉の女の下照姫(またの名は高姫。またの名は稚国玉)を娶り、留り住んで「私もまた葦原中国を治めたいと思う」と言った。遂に復命しなかった。この時高皇産霊尊は久しく復命しないことを怪しんで、名も無い雉を遣わして探らせた。
    その雉は飛び降りて、天稚彦の門前に立つ湯津杜木(ゆつかつら)の梢に止まった。天探女はこれを見て、天稚彦に「不思議な鳥が杜の梢に降りました」と言った。天稚彦高皇産霊尊から賜った天鹿児弓・天羽羽矢を取って、雉を射殺した。その矢は雉の胸を貫いて、高皇産霊尊の御前に届いた。高皇産霊尊はその矢を見て、「この矢は、昔私が天稚彦に賜った矢である。血が矢に付いている。おそらく国神と戦ったのだろう」と言った。そこで矢を取って投げ返して下した。その矢は落ち下って、天稚彦の胸に当たった。この時天稚彦は、新嘗をして休んで寝ていた時で、矢が当たって死んでしまった。これを世の人が、反矢可畏(かえしやいむべし)原文ママ。というもとである。
    天稚彦の妻の下照姫は泣き悲み、声は天にまで達した。この時天国玉はその泣き声を聞いて、天稚彦が死んだことを知った。それで疾風(はやち)を使い、屍を上げて天に戻した。そして喪屋を造って(もがり)をした。
    川鴈(かわかり)持傾頭者(きさりもち)日本書紀私記曰く、葬送時に死者の食を持つ者。及び持帚者(ははきもち)葬送後に喪屋を掃くための箒を持つ者。とした(あるいは(かけ)ニワトリの古名。を持傾頭者とし、川鴈を持帚者としたという)。また雀を舂女(つきめ)お備えの米をつくという意味か。(あるいは川鴈を持傾頭者とし、また持帚者とし、(そび)尸者(ものまさ)神霊の代わりに立って祭りを受ける者。とし、雀を舂者とし、鷦鷯(さざき)ミソサザイの古名。哭者(なきめ)葬送時に泣く役。とし、(とび)造綿(わたつくり)綿を水に浸して死者を沐浴させる者。とし、烏を宍人者(ししひと)死人に食を具える者。としたという。すべて諸々の鳥に事を任せた)とした。そして八日八夜、泣き悲しんで偲んだ。

    これより先、天稚彦が葦原中国にいる時、味耜高彦根神と仲がよかった。そこで味耜高彦根神は天に昇って喪を弔った。この神の容貌は、生前の天稚彦に実に似ていた。
    それで天稚彦の親族妻子は皆「我が君は死なずにおられたのだ」と言って、衣の帯によじかかって喜び、また泣き叫んだ。味耜高彦根神は怒りを露にして「朋友の道理として弔うのだから、穢れを憚らずに、遠くから参って哀しむのだ。なぜ私を死者と間違うのか」と言うと、その帯びている大葉刈(おおはがり)(またの名は神戸剣(かむどのつるぎ))を抜いて、喪屋を斬り伏せた。これが落ちて山となった。今、美濃国の藍見川(あいみがわ)のそばにある喪山がこれである。世の人が死人に間違われることを嫌うのは、これがそのもとである。

    この後、高皇産霊尊はまた諸神を集めて、葦原中国に遣わす者を選んだ。皆は「磐裂根裂神の子の磐筒男磐筒女が生んだ子の経津主神が良いでしょう」と言った。
    時に天石窟(あまのいわや)に住む神で、稜威雄走神の子の甕速日神甕速日神の子の熯速日神熯速日神の子の武甕槌神。この神が進み出て「どうして経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私は丈夫ではないのですか」と言った。その語気が大変激しかったので、経津主神に副えて、葦原中国を平定させた。

    二神は出雲国の五十田狭(いたさ)小汀(おはま)に降り、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、逆さまに地に突き立てて、その剣先にしゃがんで、大己貴神に問うには、「高皇産霊尊は皇孫をお降しになって、この地に君臨させるおつもりである。それで先に我々二神が遣わされて平らげるのである。お前の考えはどうだ。去るのか否か」と。大己貴神は「我が子に聞いて、その後に報告したいと思います」と答えた。
    この時その子の事代主神は出かけて、出雲国の三穂(みほ)の崎で釣りを楽しんでいた。あるいは、鳥射ちを楽しんでいたともいう。そこで熊野諸手船(くまののもろたふね)、またの名は天鴿船(あまのはとぶね)稲背脛を乗せて遣わした。そして高皇産霊尊の勅を事代主神に伝えて、返答の言葉を尋ねた。事代主神は使者に「天神が仰せになるのです。父はお去りになるのが宜しいでしょう。私もまた違えることはしません」と言った。そして海中に八重蒼柴籬(やえのあおふしかき)を造り、船の側板を渡って去った。使者は還って復命した。それで大己貴神は子の言葉を、二神に報告して「私が頼みとした子は、既に去りました。私もまた去りたいと思います。もし私が戦い防ぐことがあれば、国内の諸神は必ず一緒に戦うでしょう。今私が去れば、あえて従わないという者は誰もいないでしょう」と言った。
    そして国を平らげる時に用いた広矛(ひろほこ)を二神に渡して言うには、「私はこの矛を使って事を成し遂げました。天孫がもしこの矛をお使いになって国をお治めになれば、必ずや平安となるでしょう。私は今まさに幽界に去りたいと思います」と。言い終わると遂に去っていった。
    二神は従わない諸神を誅して復命した。
    あるいは、二神は遂に邪神及び草・木・岩の類を誅して、全て平らげた。従わない者は、星神の香香背男のみとなった。そこで倭文神建葉槌命を遣わして服従させた。そして二神は天に登ったという。

    高皇産霊尊は、真床追衾(まとこおうふすま)床を覆う衾。で皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降らせた。
    皇孫は天磐座(あまのいわくら)天磐座。此云阿麻能以簸矩羅。を離れ、また天八重雲(あまのやえたなくも)を押し分け、勢いよく道を別けに別けて、日向(ひむか)()高千穂峰(たかちほのみね)に天降った。皇孫が進んだ様子は、槵日(くしひ)二上(ふたかみ)天浮橋(あまのうきはし)から、浮島の平らな所に立って、膂宍(そしし)空国(むなくに)痩せた不毛の地を表現。を丘続きに進み、国を求めて吾田(あた)長屋(ながや)笠狭(かささ)の崎に着いた。
    その地に人が一人いて、自ら事勝国勝長狭と名乗った。皇孫が「国はあるのか。無いのか」と尋ねると、「ここには国がございます。どうぞごゆっくり」と答えた。そこで皇孫は留まり住んだ。
    時にこのは国には美人がいた。名を鹿葦津姫という。またの名は神吾田津姫。またの名を木花之開耶姫。皇孫がこの美人に「あなたは誰の(むすめ)ですか」と尋ねると、「私は天神(あまつかみ)大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。皇孫は召して、一夜で妊娠した。
    皇孫は信じられずに、「天神といえども、どうして一夜の間に人を妊ませることができようか。お前が妊んだのは、我が子ではないはずだ」と言った。それで鹿葦津姫は怒り恨んで、戸の無い室を作って、その中に入り、誓約(うけい)をして「私が身ごもったのが、天孫の御子でなければ、きっと焼け滅びるであろう。もし本当に天孫の御子であれば、火で損なわれることはない」と言った。そして火を放って室を焼いた。
    始めて起こる煙の末から生まれ出た子を名付けて火闌降命という。これは隼人(はやと)らの始祖である。
    次に熱が避る時に生まれ出た子を名付けて彦火火出見尊という。
    次に生まれ出た子を名付けて火明命という。これは尾張連(おわりのむらじ)らの始祖である。
    全てで三子である。
    久しくして天津彦彦火瓊瓊杵尊は崩じた。それで筑紫日向可愛之山陵(つくしのひむかのえのみささぎ)に葬った。

    【日本書紀 巻第二 神代下第九段】
    • 天照大神天稚彦に勅して「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)は、我が子が王たる地に相応しい。しかし強暴な悪い神がいる。だからお前が先に赴いて平らげよ」と。そして天鹿児弓(あまのかごゆみ)天真鹿児矢(あまのかごや)を賜って遣わした。天稚彦は勅を受けて降ると国神(くにつかみ)の女を多く娶り、八年経っても復命しなかった。それで天照大神思兼神を呼んで、その復命しない状況を問うた。思兼神は思考して、「雉を遣わして問うのが宜しいでしょう」と言った。そこでこの神の考えに従って、雉を遣わして見に行かせた。
      その雉は飛び下って、天稚彦の門前の湯津杜(ゆつかつら)の樹の梢に止まり、「天稚彦よ。なぜ八年間、復命しないのだ」と鳴いた。
      時に国神がいて、名を天探女という。その雉を見て言うには、「鳴声の悪い鳥が、この樹の梢にいます。射殺してしまいましょう」と。天稚彦は天神から賜った天鹿児弓と天真鹿児矢を取り、そして射た。矢は雉の胸を貫き、天神の所に達した。天神はその矢を見て、「これは昔、私が天稚彦に賜った矢である。今になってなぜやって来た」と言った。そして矢を取り、呪って言うには、「もし悪い心を以って射たならば、必ず天稚彦に当たって害にあうだろう。もし清い心を以って射たならば、何事も無いだろう」と。そして投げ返した。するとその矢は落下して、寝ている天稚彦の胸に当たった。そしてたちどころに死んだ。これは世の人が「返し矢恐るべしちなみに原文は「返矢可畏」である。」というもとである。
      この時天稚彦の妻子が天降って、(ひつぎ)を持っていき、天に喪屋を作り、殯をして泣いた。
      これより先、天稚彦味耜高彦根神は仲が良かった。それで味耜高彦根神は天に登り、喪を弔って大いに泣いた。時にこの神の姿形は、天稚彦にとてもよく似ていた。それで天稚彦の妻子らはこれを見て喜び、「我が君は死なずにおられたのだ」と言うと、衣の帯によじかかったので、押し離すことも出来なかった。味耜高彦根神は怒って、「朋友が亡くなったというので、私は弔いにきたのだ。なぜ私を死人に間違うのだ」と言うと、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、喪屋を斬り倒した。その喪屋は落ちて山となった。美濃国の喪山がこれである。世の人が死者に間違われることを嫌うのは、これがそのもとである。
      時に味耜高彦根神は装いが美しくて、二つの丘・二つの谷の間を照らすほどだった。それで喪に集まる者が歌を詠んだ(あるいは味耜高彦根神の妹の下照媛が、集まる人に丘・谷を照らすのは味耜高彦根神ということを知らせるために歌を詠んだともいう)。

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      また歌を詠んだ。

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      この両首は今、夷曲(ひなぶり)と名付けている。

      天照大神は、思兼神の妹の万幡豊秋津媛命を、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の妃とし、葦原中国(あしはらのなかつくに)に降らせた。この時勝速日天忍穂耳尊天浮橋(あまのうきはし)に立ち、下を見下ろして「あの地は平定されていない。不用で、心に馴染まない。頑強で愚かな国だろうか」と言った。そしてまた還り登って、詳しく降らない現状を述べた。そこで天照大神は、武甕槌神経津主神を遣わし、先に行かせて打ち払わせた。
      二神は出雲に降り、大己貴神に「お前はこの国を天神に奉るのか否か」と問うと、「我が子の事代主が鳥射ちを楽しんで、三津の崎におります。今すぐ尋ねてご返事致します」と答えた。そして使いを遣わして答えるには、「天神のお求めになる所を、どうして奉らぬことが出来ましょう」と。それで大己貴神は、その子の言葉を二神に報告した。二神は天に昇って、「葦原中国は全て平らげました」と報告した。
      天照大神は勅して「もしそうであれば、すぐに我が子を降らせよう」と。まさに降らせようとした時、皇孫が生まれた。名付けて天津彦彦火瓊瓊杵尊という。
      時に上奏があり、「この皇孫を代わりに降らせられませ」と。
      そこで天照大神は天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)八咫鏡(やたのかがみ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)の三種の宝物を賜り、また中臣(なかとみ)の上祖天児屋命忌部(いんべ)の上祖太玉命猿女(さるめ)の上祖天鈿女命鏡作(かがみつくり)の上祖石凝姥命玉作(たまつくり)の上祖玉屋命、全て五部神を副えて、皇孫に勅して「葦原千五百秋之瑞穂国(あしはらのちいおあきのみつほのくに)は、我が子孫が王たるべき地である。皇孫であるあなたが行って治めなさい。さあ行きなさい。宝祚(あまつひつぎ)の隆昌は、天地と共に窮まりないでしょう」と。
      降ろうとするときに、先払いの神が還ってきて言うには、「一柱の神が天八達之衢(あまのやちまた)道の多く分かれる所。におります。その鼻の長さは七(あた)。背の長けは七尺余り。まさに七尋(ななひろ)と言うべきでしょう。また口尻口と尻、または口の端かは不明。は明るく輝き、目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは、赤酸醤(ほおずき)に似ています」と。そこで神を遣わして問わせた。時に八十万神(やそよろずのかみ)がいたが、皆眼光の鋭さに話が出来なかった。そこで特に天鈿女に勅して「お前は眼光の鋭さに勝る神である。行って尋ねなさい」と。
      天鈿女はその胸の乳をかき出し、裳の帯を臍の下まで押し下げ、笑って向かい立った。この時、衢にいる神は尋ねて「天鈿女よ。あなたがこのようなことをするのはどうしてですか」と。対して「天照大神の御子がおいでになる道に、このようにいる者は誰ですか。あえて問う」と。衢神は「天照大神の御子が、今まさにお降りになられると聞きました。それでお迎え奉ろうと思って待っているのです。私の名は猿田彦大神です」と答えた。時に天鈿女はまた尋ねて「お前が私より先に行くのか、それともお前が私より先に行くのか」と。答えて「私が先に道を開いて行きましょう」と。天鈿女はまた尋ねて「お前はどこに行くのだ。皇孫はどこにおいでになるのか」と。答えて「天神の御子は筑紫(つくし)日向(ひむか)高千穂(たかちほ)槵触(くしふる)の峰においでになるでしょう。私は伊勢の狭長田(さなだ)五十鈴(いすず)の川上に行くでしょう」と。そして「私の出所を顕わにしたのはあなたですから、あなたが私を送って下さい」と言った。天鈿女は還って報告した。
      そこで皇孫は天磐座(あまのいわくら)を離れ、天八重雲(あまのやえたなくも)を押し分け。勢いよく道を別けに別けて天降った。遂に先の約束のとおり、皇孫は筑紫の日向の高千穂の槵触の峰に着いた。その猿田彦神は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上に着いた。そして天鈿女命は、猿田彦神の求めるままに送った。時に皇孫が天鈿女命に勅して「お前は顕わにした神の名を姓氏とせよ」と。そして猿女君(さるめのきみ)の名を賜った。それで猿女君の男女らを、皆呼んで君というのは、これがそのもとである。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第一】
    • 天神は経津主神武甕槌神を遣わして、葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定させた。
      時に二神が言うには、「天に悪い神がいて、名を天津甕星。またの名を天香香背男といいます。どうか先にこの神を誅した後に、葦原中国を平定させてください」と。この時に斎主神斎之大人といった。この神は今東国(あずま)楫取(かじとり)の地にいる。
      二神は出雲の五十田狭(いたさ)小汀(おはま)に着いた。そして大己貴神に「お間はこの国を、天神に奉るのか否か」と問うと、「疑います。あなた方二神が私の所へいらっしゃったのではありませんか。許せません」と答えた。そこで経津主神は還り昇って報告した。
      この時高皇産霊尊は、また二神を遣わし、大己貴神に勅して「今お前が言うことを聞くと、深く理に適っている。そこで詳しく条件を勅そう。お前が治める現世の事は、私の孫が治めるべきである。お前は神事を治めるのがよいだろう。またお前が住むべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今まさに造るが、千尋の栲縄で、しっかり結ぼう。その宮を造るきまりは、柱は高く太く、板は広く厚くしよう。また田を作って与えよう。またお前が海に通って海ぶために、高橋・浮橋・天鳥船を造ろう。また天安河(あまのやすのかわ)に打橋を造ろう。また供しっかりと縫った白楯を造ろう。またお前の祭祀を司るのは天穂日命である」と。そこで大己貴神は「天神のお教えは慇懃で御座います。あえて御下命に従わないことがありましょうか。私が治める現世の事は、皇孫がお治めになるべきです。私は退いて幽事を治めましょう」と言って、岐神を二神に薦めて言うには、「この神が私の代わりとしてお仕え奉ります。私はここから去りましょう」と。そして体に八坂瓊(やさかに)の瑞をつけて、長く隠れた。
      それで経津主神岐神を先導とし、巡り歩いて平定した。逆らう者がいれば斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。
      この時帰順した首長は、大物主神事代主神である。そして八十万神(やそよろずのかみ)天高市(あまのたけち)に集め、率いて天に昇り、誠の心を述べた。
      高皇産霊尊大物主神に「お前がもし国神を妻とするなら、私はお前が親しい心ではないと思う。そこで私の(むすめ)三穂津姫をお前の妻にしよう。八十万神を率いて、永く皇孫の為に護り奉れ」と勅して、還り降らせた。そして紀伊国(きいのくに)忌部(いんべ)の遠祖手置帆負神作笠(かさぬい)とした。彦狭知神作盾(たてぬい)とした。天目一箇神作金(かなだくみ)とした。天日鷲神作木綿(ゆうつくり)とした。櫛明玉神作玉(たますり)とした。
      太玉命を、弱い肩に太い手繦(たすき)をかけるように、天孫に代わってこの神を祭るのは、始めてここから起こった。
      また天児屋命は神事の源を司る神である。それで太占(ふとまに)の占いを以って仕えた。
      高皇産霊尊は勅して「私は天津神籬(あまつひもろき)天津磐境(あまついわさか)を立てて、我が孫の為に斎き祭ろう。お前たち天児屋命太玉命は、天津神籬を持って葦原中国に降り、我が孫の為に斎き祭れ」と。そして二神を天忍穂耳尊に副えて降らせた。
      この時天照大神は手に宝鏡を持って、天忍穂耳尊に授けて、祝って言うには、「我が子がこの宝鏡を見るときは、私を見ることのようにしなさい。共に床を同じくし、部屋を一つにして、(いわい)の鏡としなさい」と。また天児屋命太玉命に勅して「お前たち二神もまた、共に部屋の中に侍って、よく防護せよ」と。また勅して「我が高天原(たかまのはら)にある斎庭(ゆにわ)の穂を、我が子に与えなさい」と。そして高皇産霊尊の女の万幡姫天忍穂耳尊にあてて妃として降らせた。
      この時に空中で生まれた子を名付けて天津彦火瓊瓊杵尊という。そこでこの皇孫を親の代わりに降らせた。天児屋命太玉命及び諸々の(とものお)の神を、皆すべて授けた。また衣服は、前例のとおりに授けた。その後、天忍穂耳尊はまた天に還った。

      天津彦火瓊瓊杵尊は日向(ひむか)槵日(くしひ)高千穂(たかちほ)の峰に降り着いた。膂宍胸副国(そししのむなそうくに)を丘続きに国を求め歩いて、浮島にある平地に立って、国主事勝国勝長狭を呼んで尋ねると、「ここには国がございます。大御心のままに」と答えた。そこで皇孫は宮殿を立てて休んだ。
      後に海浜に出かけて、一人の美人を見つけた。皇孫が「お前は誰の子か」と尋ねると、「私は大山祇神の子で、名を神吾田鹿葦津姫といいます。またの名は木花開耶姫です」と答えた。ついで「また私の姉に磐長姫がおります」と。皇孫は「私はお前を妻としたいと思う。いかがか」と言った。答えて「私の父の大山祇神がおりますので、どうかお尋ね下さい」と。
      皇孫は大山祇神に「私はお前の女を見て、妻にしたいと思う」と言った。そこで大山祇神は二人の女に沢山の捧げ物を持たせて献上した。
      時に皇孫は、姉は醜いので召さずに返し、妹は美人なので召して交わり、一夜で妊んだ。それで磐長姫は大いに恥じ、呪って言うには「仮に天孫が、私をお退けにならずにお召しになれば、生まれる御子は命は永く、磐石でおられたでしょう。しかし妹のみをお召しなりましたので、生まれる御子は、必ずや木の花のように散り落ちることでしょう」と。
      あるいは磐長姫は恥じ、恨み、唾を吐き、泣いて「現世の人々は、木の花のように、しばらく移ろいで衰え去ることでしょう」と言ったという。
      この世の人の命の短いことは、これがもとである。

      この後、神吾田鹿葦津姫が皇孫を見て言うには、「私は天孫の御子を妊みました。私事として生むことは出来ません」と。皇孫は「天神の子といえども、どうして一夜で人を妊ますことが出来ようか。私の子では無いのだろうか」と言った。木花開耶姫は恥じ恨むこと甚だしく、戸の無い室を作り、誓約(うけい)をして言うには、「私が妊んだのが、他の神の子であれば、きっと不幸が起きるであろう。本当に天孫の子であれば、きっと無事に生まれるであろう」と。そしてその室の中に入り、火で室を焼いた。
      炎が初めて起こる時に生まれた子を名付けて火酢芹命
      次に火の盛んな時に生まれた子を名付けて火明命という。
      次に生まれた子を名付けて彦火火出見尊という。またの名を火折尊という。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第二】
    • 初め炎が明るい時に生まれた子は火明命
      次に炎が盛んな時に生まれた子は火進命。また火酢芹命という。
      次に炎が避る時に生まれた子は火折彦火火出見尊
      全てこの三子は、火で損なわれることは無く、母もまた損なわれることは少しも無かった。
      時に竹刀で、その子の臍の緒を切った。その棄てた竹刀は竹林になった。それでその地を名付けて竹屋(たかや)という。
      時に神吾田鹿葦津姫は占いで田を定めた。名付けて狭名田(さなだ)という。その田の稲で、天甜酒(あまのたむさけ)を醸んでお供えした。また沼田の稲を飯にしてお供えした。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第三】
    • 高皇産霊尊真床覆衾(まとこおうふすま)を天津彦国光彦火瓊瓊杵尊に着せ、天磐戸(あまのいわと)を開け、天八重雲(あまのやえたなくも)を押し分けて降らせた。
      この時大伴連(おおとものむらじ)の遠祖天忍日命来目部(くめべ)遠祖天槵津大来目を率いて、天磐靫(あまのいわゆき)を背負い、腕には稜威高鞆(いつのたかとも)をつけ、天梔弓(あまのはじゆみ)天羽羽矢(あまのははや)を手に取り、八目鳴鏑(やつめのなりかぶら)を取り添え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯び、天孫の前に立って降って行った。
      日向(ひむか)()高千穂(たかちほ)槵日(くしひ)二上(ふたかみ)の峰の天浮橋(あまのうきはし)に着き、浮島の平らな地に立って、膂宍空国(そししのむなくに)を丘続きに求め歩いて、吾田(あた)長屋(ながや)笠狭(かささ)の岬に着いた。
      時にこの地には一柱の神があった。名を事勝国勝長狭という。そこで天孫がその神に「国はあるのか」と尋ねると、「ございます」と答え、「勅のままに奉ります」と言った。それで天孫はこの地に留まり住んだ。その事勝国勝神は、伊奘諾尊の子である。またの名を塩土老翁という。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第四】
    • 天孫は大山祇神の女の吾田鹿葦津姫を召して一夜で身ごもった。そして四子を生んだ。
      そこで吾田鹿葦津姫は子を抱いてやって来て「天神の御子を私事として養うことは出来ませんので、ありのままを申し上げてお知らせ致します」と言った。
      この時天孫はその子らを見て嘲り、「なんとまあ、我が皇子が生まれるとは喜ばしい」と言った。それで吾田鹿葦津姫は怒って「どうして私をお嘲りになるのでしょうか」と言った。天孫は「心疑わしいと思うから嘲るのだ。なぜならば、天神の子といえども、どうして一夜の間に人を妊ませることが出来ようか。きっと我が子では無い」と言った。
      吾田鹿葦津姫は益々恨み、戸の無い室を作って、その中に入り、誓約(うけい)をして言うには、「私が妊んだのが、もし天神の御子でなければ必ずや亡びるであろう。もし天神の御子であれば損なわれることは無いであろう」と。そして室に火を放って焼いた。
      その火が初め明るくなった時に踏み出た子が自ら名乗って「私は天神の子。名を火明命という。我が父はどこにおられるのですか」と。
      次に火の盛んな時に踏み出た子がまた名乗って「私は天神の子。名を火進命という。我が父と兄はどこにおられるのですか」と。
      次に火が衰える時に踏み出た子がまた名乗って「私は天神の子。名を火折尊という。我が父と兄達はどこにおられるのですか」と。
      次に火の熱が避る時に踏み出た子がまた名乗って「私は天神の子。名を彦火火出見尊という。我が父と兄達はどこにおられるのですか」と。
      その後に母の吾田鹿葦津姫が、自ら燃え杭の中から出て来て言うには、「私が生みました御子と、私の体は、火の難に当たっても、少しも損われる所はありません。天孫は御覧になりましたか」と。答えて「私は元々これが我が子と知っていたのだが、ただ一夜で妊んだことを疑う者がいると思い、皆にこれが我が子であり、天神は一夜で妊ますことが出来ることを知らしめようと思ったのだ。またお前は不思議な力があり、子達は人に勝れた気のあることを明らかにしようと思ったのだ。それで前日に嘲りの言葉を述べたのだ」と。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第五】
    • 天忍穂根尊高皇産霊尊の女の栲幡千千姫万幡姫命(または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫の子の千千姫命という)を娶り、生まれた子は天火明命。次に生まれたのは天津彦根火瓊瓊杵根尊。その天火明命の子は天香山。これは尾張連(おわりのむらじ)らの遠祖である。

      皇孫火瓊瓊杵尊を葦原中国(あしはらのなかつくに)に降らせるに至り、高皇産霊尊は八十諸神に勅して「葦原中国は、岩根・木の株・草の葉もよく物を言う。夜は火の穂のように騒がしく響き、昼は蠅のように沸きあがる。云々。

      時に高皇産霊尊は勅して「昔天稚彦を葦原中国に遣わしたが、今に至るまで久しく参らぬわけは、国神に抵抗する者がいるからであろう」と。そして名無しの雄雉を遣わした。この雉が飛び降りて、粟田・豆田を見ると、留まって帰らなかった。これが世のいわゆる「雉頓使(きじのひたつかい)」のもとである。それでまた名無しの雌雉を遣わした。この鳥が飛び降りると、天稚彦が射た矢に当り、上って報告した。云々。

      この時高皇産霊尊真床覆衾(まとこおうふすま)を皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲(あまのやえたなくも)を押し分けて降らせた。それでこの神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊という。この時降り着いた所を日向(ひむか)()高千穂(たかちほ)添山(そおりのやま)の峰という。そのやって来た時に、云々。

      吾田(あた)笠狭(かささ)の岬に着いて、遂に長屋(ながや)竹島(たかしま)に登った。そしてその地を巡り見ると、そこに人がいた。名を事勝国勝長狭という。天孫が「ここは誰の国であるか」と尋ねると、「これは長狭が住む国で御座います。しかし今は天孫に奉ります」と答えた。天孫はまた尋ねて「その波頭に立つ浪穂の上に八尋殿を立て、手玉を鳴らして機を織る少女(おとめ)は誰の(むすめ)であるか」と。答えて「大山祇神の女達で、姉を磐長姫といいます。妹を木花開耶姫といい、また豊吾田津姫といいます」と。云々。

      皇孫は豊吾田津姫を召して、一夜で妊んだ。皇孫は疑って、云々。

      遂に火酢芹命が生まれた。次に火折尊が生まれた。またの名は彦火火出見尊
      母の誓いの験が、本当に皇孫の子であることを証明した。しかし豊吾田津姫は、皇孫を恨んで言葉を交わさなかった。皇孫は憂えて歌を詠んだ。

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      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第六】
    • 高皇産霊尊の女の天万栲幡千幡姫(あるいは高皇産霊尊の子の万幡姫の子の玉依姫命という)。この神が天忍骨命の妃となり、生まれた子は天之杵火火置瀬尊。
      あるいは勝速日命の子の天大耳尊丹舄姫を娶り、生まれた子は火瓊瓊杵尊という。
      あるいは神皇産霊尊の女の栲幡千幡姫が生んだ子は火瓊瓊杵尊という。
      あるいは天杵瀬命が吾田津姫を娶り、生まれた子は火明命。次に火夜織命。次に彦火火出見尊という。

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第七】
    • 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊高皇産霊尊の女の天万栲幡千幡姫を娶って妃とし、生まれた子を名付けて天照国照彦火明命という。これは尾張連(おわりのむらじ)らの遠祖である。次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊。この神は大山祇神の女の木花開耶姫命を娶って妃とし、生まれた子を名付けて火酢芹命という。次に彦火火出見尊

      【日本書紀 巻第二 神代下第九段 一書第八】
    • 天照大御神高木神の命令で、太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に詔して「今、葦原中国(あしはらのなかつくに)が平定されたと報告があった。だから委任していたとおり、降って治めよ」と。
      その太子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命は「私は降る支度をしている間に子が生まれました。名を天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命といいます。この子を降すべきです」と答えた。
      この御子は、高木神の女の万幡豊秋津師比売命と結婚して生まれた子で、天火明命。次に日子番能邇邇芸命の二柱である。
      この言葉に従い、日子番能邇邇芸命に詔して「この豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)は、あなたが治める国と委任します。だから命令に従って天降りなさい」と。

      日子番能邇邇芸命が天降るとき、天之八衢(あまのやちまた)に居て、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がここにあった。それで天照大御神高木神の命令で、天宇受売神に詔して「お前はか弱い女だけれども、相対する神と面と向かっても気後れしない神である。それでお前が行って『我が御子が天降る道に、そのようにして居るのは誰か』と尋ねよ」と。
      それで問い質してみると、「私は国神で、名を猿田毘古神と申します。ここに出ているのは、天神の御子は天降ると聞きまして、御先導を仕え奉るためにお迎えに参ったのです」と答えた。
      こうして天児屋命布刀玉命天宇受売命伊斯許理度売命玉祖命の、合わせて五伴緒五族の長。を分け加えて天降らせた。
      天照大御神を岩屋戸から招き出した八尺(やさか)勾璁(まがたま)と鏡、及び草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を賜り、また常世思金神手力男神天石門別神を副え、詔して「この鏡は、ひたすらに私の御魂として、私を拝むように斎き祭りなさい。次に思金神は先に述べたように取り扱って政治をしなさい」と。
      この二柱の神天照大御神と思金神か。伊須受能宮(いすずのみや)皇大神宮。伊勢神宮の内宮。五十鈴宮。に斎き祭っている。
      次に登由宇気神外宮(とつみや)豊受大神宮。伊勢神宮の外宮。度相(わたらい)に鎮座する神である。
      次に天石戸別神。またの名は櫛石窓神という。またの名は豊石窓神という。この神は御門(みかど)伊勢神宮のの神である。
      次に手力男神佐那那県(さなながた)に鎮座している。
      そしてその天児屋命中臣連(なかとみのむらじ)らの祖である。
      布刀玉命忌部首(いんべのおびと)らの祖である。
      天宇受売命猿女君(さるめのきみ)らの祖である。
      伊斯許理度売命作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの祖である。
      玉祖命玉祖連(たまのおやのむらじ)らの祖である。

      そこで詔して、天津日子番能邇邇芸命は天之石位(あまのいわくら)高天原の御座。を離れ、幾重にもたなびく天雲を押し分け、威をもって道をかき分け、天浮橋(あまのうきはし)の浮島に立って、竺紫(つくし)日向(ひむか)高千穂(たかちほ)くじふる岳槵触山のことか。原文は「久士布流多気」に天降った。
      そして天忍日命天津久米命の二人は天之石靫(あまのいわゆぎ)を負い、頭椎之大刀(くぶつちのたち)を佩き、天之波士弓(あまのはじゆみ)を持ち、天之真鹿児矢(あまのまかこや)を手に挟み、面前に立って仕えた。
      それでその天忍日命大伴連(おおとものむらじ)らの祖である。
      天津久米命久米直(くめのあたい)らの祖である。

      そこで詔して「この地は韓国(からのくに)に向かい、笠紗(かささ)の岬に真っ直ぐ通じ、朝日が直射する国であり、夕日が照る国である。故にこの地はまことに良い地である」と言うと、地底の磐石に太い宮柱を立てて、高天原に届くほどに千木を高くして住んだ。

      そこで天宇受売命に詔して、「この先導して仕えた猿田毘古大神は、正体を明らかにしたお前が送りなさい。またその神の御名は、お前が負って仕えなさい」と。
      こうして猿女君(さるめのきみ)らは、その猿田毘古之男神の名を負って、女を猿女君と呼ぶわけがこれである。

      それでその猿田毘古神は、阿邪訶(あざか)にいるとき、漁をして比良夫貝(ひらぶがい)にその手を挟まれて、海水に沈み溺れた。それでその沈んでいるときの名を底度久御魂(そこどくみたま)という。その海水の泡粒が上がるときの名を都夫多都御魂(つぶたつみたま)という。その泡が裂けるときの名を阿和佐久御魂(あわさくみたま)という。

      猿田毘古神を送って帰って来ると、すぐにあらゆる大小の魚を追い集めて、「お前たちは、天神の御子にお仕え奉るか」と尋ねると、魚たちは皆が「お仕え奉ります」と言った中で、海鼠(なまこ)だけが答えなかった。そこで天宇受売命は海鼠に「この口は答えない口か」と言って、紐小刀(ひもかたな)でその口を裂いた。それで今でも海鼠の口は裂けている。
      こういうわけで、御世ごとに(しま)志摩が速贄を献上するときに、猿女君らに賜うのである。

      天津日高日子番能邇邇芸能命は笠紗(かささ)の岬で美人に出会った。そこで「誰の(むすめ)か」と尋ねると、「大山津見神の女で、名は神阿多都比売といい、またの名は木花之佐久夜毘売と申します」と答えた。また「そなたに兄弟はあるか」と尋ねると、「私の姉の石長比売がおります」と答えた。そこで「私はそなたと結婚したいと思うがどうか」と言うと、「私には申し上げることは出来ません。私の父の大山津見神が申し上げましょう」と答えた。それでその父の大山津見神のもとへ所望の遣いを出すと、大いに喜んで、その姉の石長比売を副えて、沢山の品物を置いた机を持たせて差し出した。その姉は容姿がとても醜かったので、見て恐れをなして送り返した。ただその妹の木花之佐久夜毘売だけを留めて、一夜を共にした。
      大山津見神は、石長比売を送り返されたことを大いに恥じて、「我が女を二人並べて奉ったわけは、石長比売をお使いになれば、天神の御子の命は、雪が降り風が吹いても、つねに岩のように堅固で揺るがないでしょう。また木花之佐久夜毘売をお使いになれば、木の花が栄えるように、御繁栄なされますようにと祈って差し出したのです。この石長比売をお返しになり、木花之佐久夜毘売一人をお留めになるということは、天神の御子の御寿命は、木の花のようにはかなくいらっしゃるでしょう」と言った。
      それで今でも天皇方の命は長久ではないのである。

      この後、木花之佐久夜毘売がやって来て言うには、「私は妊娠して、今にも産む時期になりました。この天神の御子を私事で産むことは出来ません。それで申し上げるのです」と。
      そこで「佐久夜毘売は一夜で妊娠したというのか。これは我が子ではない。必ずや国神の子であろう」と言うと、「私が妊んだ子が、もし国神の子であれば、産むときに不幸が起こるでしょう。もし天神の御子であれば幸福が起こるでしょう」と答え、すぐに戸口の無い八尋殿(やひろどの)を造って、その御殿の中に入った。そして土で塗り塞いで産むとき、御殿に火をつけて産んだ。
      それでその火が盛んに燃えるときに生まれた子の名は火照命。この神は隼人阿多君(はやとのあたのきみ)の祖である。
      次に生まれた子の名は火須勢理命
      次に生まれた子の御名は火遠理命。またの名は天津日高日子穂穂手見命の三柱。

      【古事記 上巻】
    • 天祖吾勝尊高皇産霊神の女の栲幡千千姫命を召し入れて天津彦尊を生んだ。名付けて皇孫命という。天照大神高皇産霊神の二神の孫であるので、皇孫というのである。天照大神高皇産霊尊は皇孫を大事に育てた。
      そこで豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の主として降らせたいと思い、経津主神(これは磐筒女神の子で、今の下総国(しもつふさくのくに)香取神がこれである)・武甕槌神(これは甕速日神の子で、今の常陸国の鹿島神がこれである)を遣わして、平定させた。
      大己貴神及びその子である事代主神は、共に譲り渡し、国を平らげた矛を二神に授け、「私はこの矛で、遂に事を成すことができた。天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば、必ずや平安となるでしょう。今、私は冥界にこもりましょう」と言った。言い終わると遂に去っていった。
      そこで二神は、順わない荒ぶる神達を服従させて復命した。

      時に、天祖天照大神高皇産霊尊が互いに語り合って言うには、「葦原瑞穂国(あしはらのみずほのくに)は、我が子孫が王となるべき地である。皇孫が行ってよく治めなさい。宝祚(あまつひつぎ)の栄えること、天壌無窮であれ」と。
      そして八咫鏡と薙草剣の二種の神宝を皇孫に授け賜い、永く天璽(あまつしるし)とした。いわゆる神璽(みしるし)の剣・鏡がこれである。矛・玉は自ずと従った。
      そして勅して「我が子よ。この宝の鏡を見ることは、私を見ることと同じだと思いなさい。床を同じくし、殿を共にして、(いわい)の鏡としなさい」と。
      そして天児屋命太玉命天鈿女命を副えて侍らせた。
      それでまた勅して、「私は天津神籬神籬者。古語比茂侶伎。(あまつひもろき)天津磐境(あまついわさか)を起こし立てて、我が孫の為に祝いましょう。お前たち天児屋命太玉命の二神は、天津神籬を持って葦原中国に降り、また我が孫の為に祝いなさい。二神は共に殿の内に侍って、よく防ぎ護りなさい。我が高天原の斎庭(ゆにわ)の穂(これは稲種である)を、我が子に食べさせなさい。太玉命諸部(もろとものお)の神を率いて、その職に仕え奉ること、天上の儀のようにせよ」と。
      そして諸神を副えて従わせた。
      また大物主神に勅して、「八十万(やそよろず)の神を率いて、永く皇孫の為に護り奉りなさい」と。
      大伴の遠祖の天忍日命は、来目部の遠祖の天槵津大来目を率いて、武器を帯びて先駆けた。

      まさに降ろうとする間に、先駆けが戻ってきて、「一柱の神が天八達之衢(あまのやちまた)におります。その鼻の長さは七咫、背丈は七尺、口尻は照り輝き、目は八咫鏡のようです」と言った。
      従っていた神を遣わして、その名を問わせた。八十万の神は、皆顔を合わせることも出来なかった。
      そこで天鈿女命は勅を受けて向かった。そしてその胸乳を露わにし、裳の帯を臍の下に押し下げ、向かい合って嘲笑った。
      この時、衢神は「あなたは何故そのようにしているのだ」と尋ねた。天鈿女命は対して「天孫のお出でになる道に居る者は誰だ」と言った。衢神は答えて「天孫がお降りになると聞いて、お迎え奉るためにお待ちしている。我が名は猿田彦大神である」と言った。
      天鈿女命が「お前が先に行くべきか。それとも私が先に行くべきか」と尋ねると、「私が先に行って道を開こう」と答えた。天鈿女がまた「お前は何処に行くのか。また天孫は何処にいらっしゃるのか」と尋ねると、「天孫は筑紫(つくし)日向(ひむか)高千穂(たかちほ)槵触之峰(くしふるのたけ)に至り、私は伊勢の狭長田(さなだ)五十鈴(いすず)の川上に行こう」と答えた。そして「私を顕したのはあなただ。私を送って下さい」と言った。天鈿女命は還って報告した。
      天孫が降ることは、全てその通りであった。
      天鈿女命は求めに応じて送った。天鈿女命猿女君(さるめのきみ)の遠祖である。顕わにした神の名を以って氏姓とした。今その氏の男女が皆、猿女君というのは、これがもとである。
      こうして群神は勅を受けて、天孫に従い、代々助け合って、それぞれがその職についた。

      【古語拾遺 一巻】