欽明天皇

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名前
  • 漢風諡号:欽明天皇(きんめいてんのう, きんめいてんわう)
  • 和風諡号:天國排開廣庭天皇【日本書紀】(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと, あくにおしはらには)天国排開広庭天皇
  • 天國排開廣庭尊【日本書紀】あめくにおしはらきひろにわのみこと, あくにおしはらには開。此云波羅企。)天国排開広庭尊
  • 天國押波流岐廣庭命【古事記】(あめくにおしはるきひろにわのみこと, あくにおしはるには)天国押波流岐広庭命
  • 磯城嶋天皇【日本書紀】(ししま)磯城島天皇
  • 天國押波流岐廣庭天皇【古事記】(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと, あくにおしはるには)天国押波流岐広庭天皇
  • 斯貴嶋宮治天下阿米久爾於志波留支廣庭天皇知恩院本は「天」の大部分を欠失。【上宮聖徳法王帝説】(しきしまのみやにあめのしたしろしめししあめくにおしはるきひろにわのすめらみこと, ししまやにあしたしししあくにおしはるには)斯貴島宮治天下阿米久爾於志波留支広庭天皇
  • 斯歸斯麻宮治天下天皇【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(しきしまやにあしたしししす)斯帰斯麻宮治天下天皇
  • 阿米久爾意斯波留支比里爾波乃彌己等【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(あめくにおしはるきひろにわのみこと, あくにおしはるには)阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等
  • 斯歸斯麻天皇【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(しきしま)斯帰斯麻天皇
  • 志癸嶋天皇【上宮聖徳法王帝説】(しきしま)志癸島天皇
  • 志歸嶋天皇【上宮聖徳法王帝説】(しきしま)志帰島天皇
  • 斯歸嶋宮治天下天國押波流岐廣庭命【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(しきしまのみやにあめのしたしろしめししあめくにおしはるきひろにわのみこと, しきしまやにあしたしししあくにおしはるには)斯帰島宮治天下天国押波流岐広庭命
  • 磯城嶋金刺宮御宇天皇【先代旧事本紀】(ししまかなさしやにあしたしししす)磯城島金刺宮御宇天皇
  • 磯城嶋宮御宇天皇【先代旧事本紀】(ししまやにあしたしししす)磯城島宮御宇天皇
性別
男性
生年月日
(継体天皇元年3月5日 ~ 継体天皇25年2月7日)
没年月日
欽明天皇32年4月(15日 ~ 29日)
  • 継体天皇けいたいてんのう【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】
  • 手白香皇女たしらかのひめみこ【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】
先祖
  1. 継体天皇
    1. 彦主人王
      1. 乎非王
      2. 久留比売命
    2. 振媛
      1. 乎波智君
      2. 阿那爾比弥
  2. 手白香皇女
    1. 仁賢天皇
      1. 市辺押磐皇子
      2. 荑媛
    2. 春日大娘皇女
      1. 雄略天皇
      2. 童女君
配偶者
  • 皇后:石姫皇女いしひめのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】
  • 妃:小石比売命おいしひめのみこと小石姫皇女おいしひめのひめみこ【古事記 下巻 欽明天皇段】
    • 妃:稚綾姫皇女わかやひめのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 妃:日影皇女ひかげのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 妃:堅塩媛きたしひめ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 妃:小姉君おあねのきみ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 妃:糠子あらこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 第一皇子:箭田珠勝大兄皇子やたのたまかつのおおえのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】【母:石姫皇女いしひめのひめみこ
  • 第二皇子:訳語田渟中倉太珠敷尊おさたのぬなくらのふとたましきのみこと敏達天皇びだつてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】【母:石姫皇女いしひめのひめみこ
  • 皇女:笠縫皇女かさぬいのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】【母:石姫皇女いしひめのひめみこ
  • 皇子:上王かみのみこ石上皇子いそのかみのみこ母子共に、日本書紀よりも古事記の記述を優先させた。【古事記 下巻 欽明天皇段, 日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:小石比売命おいしひめのみこと
  • 皇子:倉皇子くらのみこ宗賀之倉王そがのくらのみこ古事記では母を糠子郎女とする。【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条, 古事記 下巻 欽明天皇段】【母:日影皇女ひかげのひめみこ
  • 皇子:橘豊日尊たちばなのとよひのみこと用明天皇ようめいてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇女:磐隈皇女いわくまのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:臘嘴鳥皇子あとりのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇女:豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめのみこと推古天皇すいこてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:椀子皇子まろこのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇女:大宅皇女おおやけのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:石上部皇子いそのかみべのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:山背皇子やましろのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇女:大伴皇女おおとものひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:桜井皇子さくらいのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇女:肩野皇女かたののひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:橘本稚皇子たちばなのもとのわかみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇女:舎人皇女とねりのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:堅塩媛きたしひめ
  • 皇子:茨城皇子うまらきのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:小姉君おあねのきみ
  • 皇子:葛城皇子かずらきのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:小姉君おあねのきみ
  • 皇女:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:小姉君おあねのきみ
  • 皇子:泥部穴穂部皇子はしひとのあなほべのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:小姉君おあねのきみ
  • 皇子:泊瀬部皇子はつせべのみこ崇峻天皇すしゅんてんのう【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:小姉君おあねのきみ
  • 皇女:春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:糠子あらこ
  • 皇子:橘麻呂皇子たちばなのまろこのみこ【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】【母:糠子あらこ
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 第29代天皇てんのう
出来事
  • 継体天皇元年3月5日

    継体天皇手白香皇女を立てて皇后とし、後宮に関することを修めさせた。
    やがて一男を生んだ。これを天国排開広庭尊という。
    この嫡子は幼年であったため、二人の兄が治めた後に天下を治めた。
    二人の兄とは広国排武金日尊武小広国押盾尊である。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】
  • (継体天皇元年3月5日 ~ )【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年三月甲子条】

    男大迹天皇の嫡子である。母は手白香皇后
    天皇は愛して常に側に置いた。

    天皇が幼い時に夢に人が現れて「天皇が秦大津父という者を寵愛なされば、壮年に至り必ず天下を治めることになります」と言った。
    驚いて目を覚まし、使いを遣わして探させると山背国の紀伊郡の深草里で得た。
    姓字は果して夢のとおりであった。
    喜びが身に満ちて、珍しい夢に感嘆した。
    そして「お前に何事かあったか」と言うと、答えて「ございません。ただ私が伊勢に行き商いして帰るときに、山で二匹の狼が争って血に塗れていることろに遭遇しました。それで馬から降りて口と手を洗い、『あなたは貴き神で、荒い行いを好みます。もし狩人に逢えばすぐに捕えられてしまうでしょう』と言いました。そして争うのを止めて血塗られた毛を洗って逃してやり、共に命を助けました」と言った。
    天皇は「きっとこの報せであろう」と言った。
    そして近くに侍らせて優遇した。それで大いに饒富を致した。

    践祚に至り、大蔵省(おおくらのつかさ)に就けた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀】
  • 継体天皇25年2月7日継体記では丁未年四月九日。

    継体天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十五年二月丁未条】
  • 宣化天皇4年10月

    武小広国押盾天皇が崩じる宜化紀では崩御を宣化天皇4年2月10日とする。

    皇子天国排開広庭天皇は群臣に命じて「余は年若く浅識である。未だに政事にも疎い。山田皇后は政事に明るく慣れておられるから決裁をお願いするように」と。

    山田皇后が畏怖して言うには「私は山や海も及ばぬほどに恩寵を蒙っております。政事の難しさは婦女には預かれません。いま皇子は老人を敬い、年少者を慈しみ、賢者には礼し、日の高く上るまで食事を摂らずに士をお待ちになります。また若くして抜きん出て、名声をほしいままにし、人となりは心広く和やかで、憐れみ深くいらっしゃいます。諸臣たちよ。早く位に登って天下を光り輝かせて頂くようにお願いしなさい」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十月条】
  • 宣化天皇4年12月5日

    即位して天皇となる。
    時に年若干。

    皇后継体天皇の皇后手白香皇女。を尊んで皇太后とする。

    大伴金村大連物部尾輿大連大連、及び蘇我稲目宿禰大臣大臣とすることは元のとおりであった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十二月甲申条】
    • 師木島大宮(しきしまのおおみや)にて天下を治めた。

      【古事記 下巻 欽明天皇段】
    • 宣化天皇4年12月5日

      皇后継体天皇の皇后手白香皇女。を尊んで皇太后とする。
      皇太后継体紀にある皇太夫人媛を指すか。であれば振媛と思われる。に追贈して太皇太后とする。

      物部尾輿連公大連とする。
      物部目連公大臣とする天孫本紀では欽明朝で大連になったとする。大臣は誤記か。

      【先代旧事本紀 巻第九 帝皇本紀 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十二月甲申条】
  • 欽明天皇元年1月15日

    有司が皇后を立てることを願い出た。

    詔して「正妃である武小広国押盾天皇の女の石姫を立てて皇后とする」と。
    これは二男一女を生んだ
    長を箭田珠勝大兄皇子という。
    仲を訳語田渟中倉太珠敷尊という。
    少を笠縫皇女という。またの名は狭田毛皇女

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年正月甲子条】
  • 欽明天皇元年2月

    百済人己知部が帰化した。
    倭国の添上郡(そうのかみのこおり)山村(やまむら)に置いた。今の山村の己知部(こちふ)の先祖である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年二月条】
  • 欽明天皇元年3月

    蝦夷・隼人が仲間を率いて帰順した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年三月条】
  • 欽明天皇元年7月14日

    倭国の磯城郡(しきのこおり)の磯城島に遷都する。それで磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)と名付けた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年七月己丑条】
  • 欽明天皇元年8月

    高麗・百済・新羅・任那が使いを使わして貢物を献上した。

    秦人・漢人ら隣国から帰化した者を集めて国・郡に置いて戸籍に入れた。
    秦人の戸数は惣七千五十三戸。
    大蔵掾即位前紀に見える秦大津父を指すか。を以って秦伴造(はたのみやつこ)とした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年八月条】
  • 欽明天皇元年9月5日

    難波祝津宮(なにわのはふりつのみや)に行幸する。
    大伴大連金村許勢臣稲持物部大連尾輿らが従った。

    天皇が諸臣に「どれだけの軍勢があれば新羅を討てるだろうか」と問うた。
    物部大連尾輿らが奏上して「少々の軍勢では容易く征することはできません。昔、男大迹天皇の六年に百済が使いを遣わして、任那の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あるしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請しました。大伴大連金村は要請のままに求めてきた地を譲渡しました。これを新羅は積年の怨みとしております。軽々しく討伐してはなりません」と。

    大伴大連金村住吉(すみのえ)の家にこもり、病と称して参朝しなかった。
    天皇は青海夫人勾子を遣わして慇懃に慰問させた。

    大連が恐縮して言うには「私が病とすることは他ではございません。私が任那を滅ばしたと諸臣が申しておりますので、恐怖で参朝できないのでございます」と。
    そして鞍馬(かざりうま)を使いに贈って厚く敬意を表した。
    青海夫人はあるままに奏上した。

    詔して「久しく忠誠を尽くしてきたのだ。人の噂を気にすることはない」と。
    遂に罪に問うことはなく、さらに厚遇するようになった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年九月己卯条】
  • 欽明天皇2年3月

    五妃を召し入れた。

    妃で皇后の妹の稚綾姫皇女が生んだのは
    石上皇子

    次に皇后の妹の日影皇女「この皇后の妹というのは、明らかに桧隈高田天皇の女である。しかし后妃の名に列しながら、母の妃の姓と皇女の名を見ない。何れの書を出所とするかを知らない。後の勘者に任せよう」とある。が生んだのは
    倉皇子

    次に蘇我大臣稲目宿禰の女の堅塩媛は七男六女を生んだ。
    其の一を大兄皇子という。これを橘豊日尊とする。
    其の二を磐隈皇女という。またの名は夢皇女。初め伊勢大神に仕えた。後に皇子茨城に犯されて任を解かれた。
    其の三を臘嘴鳥皇子という。
    其の四を豊御食炊屋姫尊という。
    其の五を椀子皇子という。
    其の六を大宅皇女という。
    其の七を石上部皇子という。
    其の八を山背皇子という。
    其の九を大伴皇女という。
    其の十を桜井皇子という。
    其の十一を肩野皇女という。
    其の十二を橘本稚皇子という。
    其の十三を舎人皇女という。

    次に堅塩媛の同母弟の小姉君は四男一女を生んだ。
    其の一を茨城皇子という。
    其の二を葛城皇子という。
    其の三を泥部穴穂部皇女という。
    其の四を泥部穴穂部皇子という。またの名は天香子皇子。一書に云う、またの名は住迹皇子
    其の五を泊瀬部皇子という。
    一書に云う、
    其の一を茨城皇子という。
    其の二を泥部穴穂部皇女という。
    其の三を泥部穴穂部皇子という。またの名は住迹皇子
    其の四を葛城皇子という。
    其の五を泊瀬部皇子という。
    一書に云う、
    其の一を茨城皇子という。
    其の二を住迹皇子という。
    其の三を泥部穴穂部皇女という。
    其の四を泥部穴穂部皇子という。またの名は天香子
    其の五を泊瀬部皇子という。

    帝王本紀に多くの古字があり、撰集する人も、しばしば遷り変ることがあった。
    後人が習い読むときに意を以って削り改めた。
    伝写することが多く、入り乱れることになってしまった。
    前後の順も失って兄弟も入り乱れている。
    いま古今を考え調べて真実に帰した。
    知り難いものは一つに依って撰び、その異文を注した。
    他も皆これに準ずる。

    次に春日日柧臣の女の糠子が生んだのは
    春日山田皇女
    橘麻呂皇子

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
  • 欽明天皇2年4月

    安羅(あら)次旱岐夷呑奚大不孫久取柔利加羅(から)上首位古殿奚卒麻(そちま)旱岐(かんき)散半奚(さんはんげ)の旱岐の子・多羅(たら)下旱岐夷他斯二岐(しにき)の旱岐の子・子他(した)の旱岐らと、任那の日本府の吉備臣「闕名字」とある。が百済に赴いて詔書を承った。

    百済の聖明王が任那の旱岐らに言うには「日本の天皇の詔するところは、もっぱら任那を再建せよということである。今どのような策を用いて任那を再建できようか。各々忠を尽くして御心を伸べて安んじようではないか」と。

    任那の旱岐らが答えて言うには「再三新羅と議りましたが返答はありません。また図る旨を新羅に告げても返答はないでしょう。今皆で使いを遣わして天皇に奏上しましょう。任那を再建する大王のご意思は慎んで承ります。誰が敢えて言葉を挟みましょう。しかし任那は新羅は国境を接しています。恐れることは卓淳(とくじゅん)らと同じ禍「『ら』とは㖨己呑(とくことん)・加羅(から)をいう。意は卓淳らの国に亡国の禍があるからである」とある。を被ることです」と。

    聖明王が言うには「昔、我が先祖の速古王貴首王の御世に安羅・加羅・卓淳の旱岐らが初めて使いを遣わして相通じて厚く親交を結んだ。子弟のように常に隆盛を願った。しかし今新羅に欺かれて、天皇の怒りを買い、任那から恨まれることになったのは寡人(おのれ)の過ちである。私は深く懲り悔いて、下部(かほう)中佐平麻鹵城方(じょうほう)甲背昧奴らを遣わして加羅に赴き、任那の日本府に会して共に盟約した。以後は思いを繋げて、任那を再建することを朝夕忘れたことはない。今天皇が『速やかに任那を再建せよ』と詔なされたので、お前たちと共に議って任那国を再建したいと思う。善きに図らえ。また任那の国境に新羅を呼んで、話を聞くかそうでないかを問う。そして皆で使いを遣わして天皇に奏上し、慎んでご教示を承ろう。もし使いが帰還しないうちに新羅が隙を伺って任那に侵攻すれば、私は救援に向う。心配はいらない。しかしよく守り備えて警戒を忘れてはならない。別にお前たちが言う『卓淳らと同じ禍を恐れる』とは、新羅が自らの強さで為したことではない。かの㖨己呑は加羅と新羅の国境で頻りに攻め敗られた。任那も救援することが出来ず、これによって亡んだ。かの南加羅(ありひしのから)は狭小で卒に備えることが出来ず、身を寄せる所も知らず、これによって亡んだ。かの卓淳は上下が離れ離れで、主自ら新羅に内応し、これによって亡んだ。これを見ると三国の敗れた理由がよく分かる。昔、新羅が高麗に援助を求め、任那と百済を攻撃したが勝てなかった。どうして新羅が独力で任那を滅ぼせようか。今、寡人とお前たちの力と心を合わせ、天皇の霊威に頼れば、任那は必ず再建できる」と。

    そして各々に物を贈り、皆喜んで帰った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年四月条】
  • 欽明天皇2年7月

    百済は安羅の日本府と新羅が通じていることを聞いて、前部(ぜんほう)奈率鼻利莫古奈率宣文中部(ちゅうほう)奈率木刕眯淳紀臣奈率弥麻沙割注に「紀臣奈率とは、おそらく紀臣が韓の女を娶って生まれ、百済に留まって奈率となったのであり、その父は詳らかではない。他も皆これにならう」とある。らを安羅に遣わして、新羅に行った任那の執事を呼んで任那の再建を図らせた。

    別に安羅の日本府の河内直「百済本記では加不至費直・阿賢移那斯・佐魯麻都らと云う。未だ詳らかではない」とある。が計を新羅に通じたことを深く責め罵った。
    そして任那に言うには「昔、我が先祖速古王貴首王元の旱岐(かんき)当時の任那諸国の王を指す。らが初めて和親を約して兄弟となった。私はお前を子弟と為し、お前は私を父兄と為し、共に天皇にお仕えして強敵を防ぎ、国家を安らかにして今日に至る。私は先祖と元の旱岐との和親の言葉を思えば、輝く日のようである。以後は慇懃に好を修めて隣国の友好が続き、骨肉を超える恩が終始変わらないことを常に願っている。不審なことは、なぜ軽々しい言葉を用いて数年の間に、残念にも志を失ってしまったのかである。古人が「追いて悔ゆれども及ぶこと無し」と云うのはこのことか。上は雲際に達し、下は泉中に及ぶまで、今こそ神々に誓って咎を昔に改め、もっぱらに隠すこと無く所為を露わにし、誠心を神に通わせて、深く自らを責めることは当然である。聞くところによると、後を継ぐ者は、先祖の業を担って家を栄えさせて、勲業を成すことを貴いこととするという。だから今からでも先祖が結んだ和親を尊重して、天皇の詔勅の詞に従い、新羅が掠め取った国である南加羅(ありひしのから)㖨己呑(とくことん)を奪い返して本貫である任那に戻し、永く日本を父兄として仕えようとしている。これが寡人の食べても美味からず、寝ても安からぬところである。昔を悔い、今を戒め、気を配っていきたいと思う。新羅が甘言を用いて誑かそうとしていることは、天下の知るところである。お前達は妄信して計略に嵌ってしまった。任那は新羅と国境を接している。常に備えを設けるべきである。警戒を怠ってはならない。恐れることは計略に嵌り、国を失い、家を亡ぼし、虜になってしまうことである。寡人はこれを思って安心することが出来ない。聞くところによると任那と新羅は策を巡らす際には蜂・蛇のような本性を現すことは皆の知るところであるという。また禍とは、行いを戒めるための先触れである。天災とは、人に悟らせるために現れるのである。天の戒めはまさに先霊の知らせである。禍に遭ってから悔い、滅んだ後に興そうと思っても及ばない。今お前たち余に従って天皇の勅を承り、任那を立てるべきである。なぜ失敗を恐れる。もし永く本土を保ち、永く民を治めようと思うのであれば、今話した通りである。慎しまなければならない」と。

    聖明王が任那の日本府に言うには「天皇が詔して『任那がもし滅べば、お前の拠り所が無くなる。任那がもし興れば、お前の助けとなる。いま任那を興し立てて元のように戻し、お前の助けとして万民を満足させよ』と仰せになられた。謹しんで詔勅を承り、恐縮で胸が一杯となった。任那を栄えさせることを誠心に誓い、昔のように永く天皇にお仕え申し上げたいと思う。まず未然を慮り、然る後に安楽がある。いま日本府が詔のままに任那を救えば、天皇に必ずお褒め頂いて、お前達にも賞禄があろう。また日本の諸卿は久しく任那の国に住み、近く新羅に接して実情をご存知である。任那を侵して日本の力を阻もうとすることは久しく、今年だけではない。しかし敢えて動かないのは、近くは百済を恐れ、遠くは天皇を恐れるからである。朝廷を欺いて取り入り、任那と偽りの和睦をしている。任那を滅ぼすことが叶わないので、偽りの服従を示して任那の日本府を感激させたのである。今その間隙を伺い、挙兵して討ち取りたいと思う。天皇が詔勅で南加羅・㖨己呑を立てることを勧めるのはここ数十年だけではない。新羅が命に従わないことは卿らも知るところである。また天皇の詔に従い任那を立てるのにこのままでいられようか。恐れることは卿らが甘言を信じて騙され、任那国を滅ぼして天皇を辱め奉ることである。慎んで欺かれないように」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年七月条】
  • 欽明天皇2年7月同年七月条が二つあるため、この年を翌年の三年とする説もある。諸本に異文無し。

    百済が紀臣奈率弥麻沙中部(ちゅうほう)奈率己連を遣わして下韓(あるしからくに)任那(みまな)の政を奏上し、併せて上表文を奉った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年七月条】
  • 欽明天皇4年4月

    百済の紀臣奈率弥麻沙らが帰国する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年四月条】
  • 欽明天皇4年9月

    百済の聖明王前部(ぜんほう)奈率真牟貴文護徳己州己婁物部施徳麻奇牟らを遣わして扶南(ふなん)の宝物と(やっこ)二人を献上した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年九月条】
  • 欽明天皇4年11月8日

    津守連を遣わし、百済に詔して「任那の下韓(あるしからくに)にある百済の郡令(こおりのつかさ)城主(きのつかさ)を日本府に附属させる」と。
    併せて詔書を持たせて宣して「しばしば上表して任那を建てるということ十余年となる。このように奏上しても未だ達成できていない。また任那はお前の国の柱である。柱が折れれば誰が家を建てられようか。朕の心配はここにある。速やかに再建させよ。もし速やかに任那が再建すれば、河内直らは自ずと退くことは言うまでもない」と。

    この日、聖明王は勅を承り、三人の佐平内頭(さへいないず)及び諸臣に「詔勅はかくのごとくである。如何にしたら良いか」と尋ねた。
    三人の佐平らは「下韓にある我が郡令・城主は出せません。再建の事は速やかに勅に従うべきでしょう」と答えた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十一月甲午条】
  • 欽明天皇4年12月

    百済の聖明王は以前の詔を普く群臣に示して言うには「天皇の詔勅はかくの如くである。如何にすべきか」と。
    上佐平沙宅己婁徳率鼻利莫古徳率東城道天徳率木刕眯淳徳率国雖多奈率燕比善那らが議って言うには「我らの人となりが愚闇で智略もございません。任那再建の詔勅を速やかに承るべきでございます。いま任那の執事(つかさ)・国々の旱岐(かんき)らを呼んで共に謀し、意見を具申して志を表しましょう。また河内直移那斯麻都らが猶も安羅(あら)にいるならば任那再建は難しいでしょう。それで併せて上表して、本国へ戻して頂きましょう」と。
    聖明王「群臣の議りごとは甚だ寡人(おのれ)の心に適っている」と言った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月条】
  • 欽明天皇4年12月

    施徳高分を遣わして任那の執事(つかさ)と日本府の執事を呼んだ。
    共に答えて言うには「正旦が過ぎれば行って承りましょう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇四年十二月是月条】
  • 欽明天皇5年1月

    百済国が使いを遣わして、任那の執事と日本府の執事を呼んだ。
    共に答えて言うには「神をお祭りする時期です。祭りが終れば参りましょう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年正月条】
  • 欽明天皇5年1月

    百済がまた使いを遣わして、任那の執事と日本府の執事を呼んだ。
    日本府・任那は共に執事を遣わさずに身分の低い者を遣わした。
    これにより百済は共に任那国を再建するということが出来なかった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年正月是月条】
  • 欽明天皇5年2月

    百済施徳馬武施徳高分屋施徳斯那奴次酒らを遣わして任那の使いとし、日本府と任那の旱岐らに言うには「私が紀臣奈率弥麻沙奈率己連物部連奈率用奇多を遣わして天皇に拝謁させた。弥麻沙らは日本から帰還して詔書を伝えて『汝らはそちらにある日本府と共に速やかに良い計画を立て、朕の望みをかなえよ。他に欺かれぬよう戒めよ』という。また津守連「百済本記に云うには、津守連己麻奴跪という。しかし訛語により正しくはなく、詳らかではない。」とある。は日本から詔勅を伝えて任那の政を問うている。それで日本府・任那の執事と共に任那の政を議定して天皇に申し奉るため、呼びかけること三度に及ぶがそれでも来ることはない。これにより任那の政を共に計画して天皇に申し奉ることが出来ない。津守連を留め、別に急使を遣わして具に状況を天皇に申し奉ろうと思う。三月十日を以って日本に遣わす。この使いが到着すれば天皇は必ずお前たちを詰問なさるであろう。日本府の卿・任那の旱岐らは各々使いを出して、我が使いと共に天皇の詔勅を承るように」と。

    別に河内直「百済本記に云うには、河内直・移那斯・麻都という。訛語により未だその正しさを詳らかにはできない」とある。に言うには「昔から今に至るまで、ただ汝の悪いことばかりを聞く。汝の先祖ら「百済本記に云うには、汝の先祖那干陀甲背・加臘直岐甲背。または那奇陀甲背・鷹奇岐弥と云う。訛語により未だ詳らかではない」とある。も共に偽りの心で欺き説いた。為哥可君「百済本記に云うには、為哥岐弥は名を有非岐という」とある。は専らにその言葉を信じ、国難を憂えず、我が心に背いて勝手に暴虐した。これにより放逐されたのである。ひとえに汝が原因である。汝らは任那に来て常に良くないことをする。任那が日々損なわれたのは、ひとえに汝が原因である。汝は卑しいといえども、譬えば小火が山野を焼いて村里に広がることのようである。汝の悪行によって任那は敗れるであろう。海西の諸国の官家は永く天皇にお仕え申し上げることが出来なくる。いま天皇に汝らを移して本の地に帰して頂くように申し上げる。汝もまた出向いて承るように」と。

    また日本府の卿・任那の旱岐らに言うには「任那の国を建てるのに天皇の威を拝借せずに誰が建てられようか。それで私は天皇のもとに参り、将士を請うて任那の国を助けようと思う。将士の糧食は私が運ばせよう。将士の数は未だ不定である。糧食を運ぶべき場所も定め難い。願わくは一ヶ所に集まって共に可否を論じ、最善を選んで天皇に奏上しようと思うが、しきりに呼びに遣わしているが、汝らは来ないので議論も出来ない」と。
    日本府が答えて言うには「任那の執事が呼ばれても赴かないのは、私が使いを遣わさないことによるものです。私が天皇に奏上するために遣わした使いが帰還して言うには『朕は印奇臣「語訛により未詳」とある。を新羅に遣わし、津守連を百済に遣わす。汝は勅を待て。新羅・百済に自ら行ってはならない』という勅宣があったとのことです。たまたま印奇臣が新羅に使いすると聞いて、呼んで天皇の仰せになるところを尋ねました。詔は『日本の臣と任那の執事は新羅に行って天皇の勅を承れ』とのことです。百済に行って命を承れと仰せではありません。後に津守連がここに寄った時に言うには『今私が百済に遣わされるのは、下韓(あるしからくに)にある百済の郡令・城主を撤退させるためである』とのことです。ただこれだけを聞きました。任那と日本府は百済に集まって天皇の勅を承れとは聞きません。だから赴かないのは任那の意思ではありません」と。

    任那の旱岐らが言うには「使いが来て呼ぶので参ろうとしますが、日本府の卿が出発を許さないので参れないのです。大王は任那を建てるために、心の細かいところまで示されました。これには言い表せないほどの喜びを感じてます」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年二月条】
  • 欽明天皇5年3月

    百済奈率阿乇得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非らを遣わして上表するには「奈率弥麻沙奈率己連らが我が国に戻り、詔書を読み上げて『お前たちはそこにある日本府と共に良い謀りごとを立て、速やかに任那を建てよ。お前はそれを戒めて他に欺かれてはならない』と言いました。また津守連らが我が国に来て、勅書を読み上げて任那の再建を問いました。慎んで勅を承り、早速共に謀りごとを立てようと思いました。それで使いを遣わして日本府「百済本記に云うには、烏胡跛臣を召したという。これは的臣のことであろう」とある。と任那を呼びました。共に『新年となりましたので同四年十二月是月条では新年間近を理由にしている。、時期が過ぎてから参上したいと思います』と答えて久しく来ません。それでまた使いを遣わして呼ぶと、共に『祭りの時期なので、これが過ぎてから参上したいと思います』と答えて久しく来ません。また使いを遣わして呼ぶと、身分の低い者を遣わしてきたので相談出来ませんでした。任那が呼ぶのに来ないのは本意ではないのです。これは阿賢移那斯佐魯麻都の奸佞がするところなのです。任那は安羅を兄として、その意に従います。安羅の人は日本府を父として、その意に従うのです「百済本記に云うには、安羅を以って父とし、日本府を以って本とする」とある。安羅は当時の日本府の所在地。。いま的臣吉備臣河内直らは移那斯麻都の指揮に従うのみです。移那斯麻都は卑しい家の出身ですが、専ら日本府の政治をほしいままにしています。また任那を制して使いを遣わすことを邪魔しました。これにより相談して天皇にお答え奉ることが出来ませんでした。それで己麻奴跪「これは津守連(つもりのむらじ)か」とある。を留め、別に疾きこと飛ぶ鳥の如き使いを遣わして天皇に申し上げ奉ります。もし二人「二人とは移那斯と麻都である」とある。の使いが安羅にて奸佞を多く行えば、任那の再建は難しく、海西(わたのにし)の諸国朝鮮諸国を指す。がお仕えるすることは出来ません。伏して願うことは、この二人を本のところへ還すことです。勅して日本府と任那を諭し、任那再建を図り、奈率弥麻沙奈率己連らを遣わし、己麻奴跪に副えて上表奉りました。そこで詔があり、『的臣「"ら"とは吉備弟君臣・河内直らである」とある。が新羅を往来することは朕の心ではない。昔、印支弥「未詳」とある。阿鹵(あろ)の旱岐がいた時に、新羅の為に圧迫されて耕作出来なかった。百済は遠く離れているので急を救うことが出来なかった。的臣らが新羅を往来するようになり、耕作することが出来るようになったと朕は以前に聞いている。もし任那再建がすれば移那斯麻都が自然と退くことは言うまでもない』と仰せになりました。伏してこの詔を承り、喜びと恐れが心中に去来しました。そして新羅と朝廷の通謀は天皇の御命令ではないことを知りました。新羅は春に㖨淳(とくじゅん)を取り、そして我が久礼山(くれむれ)の守備兵を追い出し、遂に占有しました。安羅に近い所は安羅が耕作しています。久礼山に近い所は新羅が耕作しています。各々が奪い合いうことはありませんでした。しかし移那斯麻都は境界を越えて耕作して六月に逃げ去りました。印支弥の後に来た許勢臣の時「百済本記に云うには、我が印支弥を留めた後に既酒臣が至る時という。未だ詳らかではない」とある。には新羅が境界を侵略することは無くなりました。安羅も新羅に圧迫されて耕作できないと言ったことはありません。私がかつて聞いた話では、新羅は毎年多くの兵を集めて安羅と荷山(のむれ)を襲おうとしているといいます。あるいは加羅を襲おうとしていたと聞きました。この頃情報を得たので将士を遣わして任那を守ることは怠ることがありません。しきりに精鋭兵を送り、時に応じて救っています。それで任那は季節に従った耕作ができています。新羅も敢えて侵略はしてきません。しかし百済は遠く離れていて急を救うことができず、的臣らが新羅を往来して耕作することができたと申すのは、天朝を欺き、奸佞と成り下がったということです。このような明白なことでさえ天朝を欺くのですから、他にも偽りが多くあるでしょう。的臣らが猶も安羅に留まれば、任那の国は恐らく復興が難しいでしょう。早くに退けて頂きたい。私が深く恐れることは、佐魯麻都は母が(から)の人でありながら大連日本の大連とは別物であろう。の位についています。日本の執事と交って繁栄を楽しむ仲間に入っています。しかし今は翻って新羅の奈麻礼(なまれ)の冠をつけています。心の従うところなど他からもはっきり分ります。よくよく所作を見ると全く恐れることがありません。以前にその悪行は奏上致しました。今も他所の服を着て日々新羅の地に行くこと公私にわたって全く憚ることはありません。喙国(とくのくに)が滅んだのは他でもありません。喙国の函跛旱岐が加羅国に二心があって新羅に内応したので、加羅は外から戦うことになりました。これが滅んだ理由です。もし函跛旱岐が内応しなければ、喙国は小国といえども滅ぶことはなかったでしょう。卓淳(とくじゅん)に至ってもまた然り。仮に卓淳の国主が新羅に内応して仇を招かなければ、どうして滅ぶことになりましょうか。諸国の敗亡の禍いを鑑みるに、皆内応する二心がある者によるのです。いま麻都らは新羅に恭順し、その服を着ては朝夕通って密かに姧心を懐いています。恐れることは任那がこれにより永久に滅んでしまうことです。任那がもし滅べば我が国国も危うくなります。朝貢しようと思ってもどうして出来ましょうか。伏してお願いすることは、天皇が遥か遠くをご覧になり、速やかに本の所へ移して任那を安らかにして頂くことです」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年三月条】
  • 欽明天皇5年10月

    百済の使い奈率得文奈率奇麻らが帰国する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年十月条】
    • 冬十月に奈率得文奈率奇麻らが日本から帰還して言うところによれば、奏上した河内直移那斯麻都らの事は返答の勅が無かった。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年十月条 百済本記云】
  • 欽明天皇5年11月

    百済が使いを遣わして、日本府の臣と任那の執事を呼んで言うには「天皇に遣わした奈率得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非らが日本から帰還した。日本府の臣と任那国の執事は来て勅を承り、一緒に任那と相談するように」と。

    日本の吉備臣・安羅の下旱岐大不孫久取柔利・加羅の上首位古殿奚卒麻君(そちまのきし)斯二岐君(しにきのきし)散半奚君(さんはんげのきし)の子、多羅の二首位訖乾智・子他の旱岐・久嵯の旱岐が百済に赴いた。

    百済王聖明が詔書を示して言うには「私が遣わした奈率弥麻佐奈率己連奈率用奇多らは日本に参朝して『速やかに任那を建てよ』と詔を承った。また津守連が勅を承って任那のことを問われた。それで使いを遣わして呼んだのだ。さて如何にして任那を建てようか。どうかそれぞれの計画を述べてほしい」と。
    吉備臣・任那の旱岐らが言うには「任那国を建てるのは大王の決意にかかっています。王に従って共に勅を承ります」と。
    聖明王が言うには「任那の国と我が百済は古来より子弟のような間柄である。日本府の印岐弥「任那にいる日本の臣の名である」とある。は既に新羅を討ち、さらに私を討とうとしている。また好んで新羅の虚言を聞いている。印岐弥を任那に遣わしたのは、その国を侵害するためではない「未詳」とある。。古来より新羅は無道で言葉を偽り、信を違えて卓淳を滅ぼした。助け合おうとしても、かえって後悔してしまうだろう。それで皆を呼んで共に恩詔を承り、任那の国を興して元のように永く兄弟でありたいと思う。聞くところによると新羅・安羅の両国の境には大河があり、要害の地であるという。私はここを拠点として六つの城を造ろうと思う。天皇に三千の兵士を請い、城ごとに五百を充て、我が兵士も併せ、耕作出来ないように煩わせてやれば、久礼山(くれむれ)の五城は自ずから兵を捨てて投降するであろう。卓淳の国もまた復興するであろう。兵士には私から衣食を給しよう。これが天皇に奏上しようと思う策の一つである。なお南韓(ありひしのから)郡令(こおりのつかさ)城主(きのつかさ)を置くことが、どうして天皇に違背して朝貢の道を絶ってしまうことになるのか。願いは多難を救って強敵を殲滅することである。およそその凶党は誰かに従うことを考えているであろう。北の敵は強大で、我が国は微弱である。もし南韓に郡領・城主の守りを置かなければ、この強敵を防ぐことは出来ない。また新羅を制することも出来ない。それで新羅を攻めて任那を保つのである。もしそうでなければ、恐らくは滅ぼされて参朝も出来なくなるということを天皇に奏上したいと思う。これが策の第二である。また吉備臣欽明天皇五年三月条では吉備臣も排除の対象にしていたが、ここでは本人が策に賛同しているので、同じく名前の挙がっていた的臣の誤りと思われる。河内直移那斯麻都が猶も任那国にいれば、天皇の任那を建てよという詔を実行できない。この四人をそれぞれの本貫へ移して頂くことを天皇に奏上したいと思う。これが第三の策である。日本の臣と任那の旱岐らと共に使いを遣わして、同じく天皇に奏上して恩詔を賜るようにお願いせよ」と。
    吉備臣・旱岐らが言うには「大王の述べられた三つの策は我々の心情にも適うものです。願わくは慎んで日本の大臣「任那にある日本府の大臣をいう」とある。・安羅王・加羅王にも申し上げて、共に使いを遣わして同じく天皇に奏上したいと思います。これは千載一遇の時であり、深謀遠慮しなくてはなりません」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年十一月条】
  • 欽明天皇5年12月

    越国が言うには「佐渡島(さどのしま)の北の御名部(みなべ)碕岸(さき)粛慎人(みしはせのひと)があり、一艘の船に乗って淹留しています。春夏には魚を捕って食料としていました。その島の人が言うには人ではないといいます。また鬼であると言って、敢えて近づきません。島の東の禹武邑(うむのさと)の人が椎の実を拾って食べようと思い、灰の中に入れて煎ろうとすると、その皮が二人の人に化けて火の上に飛び上がること一尺余り。いつまでも戦い合っていました。邑人が深く怪しんで庭に取り置くと、また先の如く飛んで戦い合うことを止めませんでした。ある人が占うと『この邑人は必ず鬼によって惑わされるであろう』といいます。間もなくその言葉通りに掠め取られました。粛慎人は瀬波河浦(せなかわのうら)に移りました。浦の神は零威が激しく、人は敢えて近づきません。喉が渇いてその水を飲んで半分が死に、骨は岩石に積み重なりました。俗に粛慎隈(みしはせのくま)と呼んでいます」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇五年十二月条】
  • 欽明天皇6年3月

    膳臣巴提便を百済に遣わす。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年三月条】
  • 欽明天皇6年5月

    百済奈率其㥄奈率用奇多施徳次酒らを遣わして上表する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年五月条】
  • 欽明天皇6年9月

    百済中部(ちゅうほう)護徳菩提らを任那に遣わした。
    また呉の財物を日本府の臣と諸々の旱岐にそれぞれ贈った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年九月条】
  • 欽明天皇6年9月

    百済が丈六の仏像を造った。

    願文を作って言うには「聞けば丈六の仏を造る功徳は甚大。いま敬ってお造り奉ります。この功徳を以って願わくは天皇が勝れた徳を得られ、天皇のお治めになられる諸国が福祐を蒙ること。また願わくは天下の一切衆生が解脱を蒙ること。それでお造り奉った次第でございます」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年九月是月条】
    • 宣化天皇3年5月

      志癸島天皇欽明天皇。の御世の戊午年十月十二日に百斉国主明王が始めて仏像・経教、并せて僧等を奉った。
      勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆させた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 欽明天皇6年11月

    膳臣巴提便が百済から帰還して言うには「私が使いとして遣わされた時に妻子も従いました。百済の浜に至り、日が暮れたので宿りましたが、子供が急にいなくなりました。その夜は大雪が降りました。夜明けに探し始めると虎の足跡がありました。私は刀を帯び(よろい)を着て岩穴を捜しました。刀を抜いて『慎んで詔を受け、陸海を風雨にさらされながら奔走し、草を枕に茨を床にして苦労することは、その子を愛でて父の業を継がせようとする為である。思えばお前には神の威光がある。愛する子は一人だが今夜その子が消えた。跡を追って探しにきた。命を失うことを恐れず、報復するために来た』と言いました。その虎は前に進み出ると口を開いて呑み込もうとしました。巴提便は咄嗟に左手を伸ばして虎の舌を掴まえ、右手で刺し殺し、皮を剥ぎ取って帰還致しました」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年十一月条】
  • 欽明天皇6年

    高麗(こま)が大いに乱れて誅殺される者が多かった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年是歳条】
    • 十二月甲午に高麗国(こまのくに)細群麁群が宮廷で戦った。鼓を打って戦った。
      細群が敗れて兵を解かないこと三日。ことごとく細群の子孫は捕えられて誅殺された。

      戊戌に狛国(こまのくに)高麗国に同じ。高句麗。香岡上王が薨じる。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇六年是歳条 百済本記云】
  • 欽明天皇7年1月3日

    百済の使人中部(ちゅうほう)奈率己連らが帰途に就く。良馬七十匹・船一十隻を賜る。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年正月丙午条】
  • 欽明天皇7年6月12日

    百済中部(ちゅうほう)奈率掠葉礼らを遣して調(みつき)を献る。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年六月癸未条】
  • 欽明天皇7年7月

    倭国の今来郡(いまきのこおり)が言うには「五年の春に川原民直宮が高殿に登って眺めると良い馬「紀伊国の漁師の貢物を背負った牝馬の子である」とある。を見つけました。人影を見て高く鳴き、軽々と母の背を飛び越えました。それで出向いて買い取ることにしました。養育して年を経て、壮年になると(おおとり)のように上り、竜のように高く飛び、仲間と違って群を抜いていました。乗り心地は安らかで、思い通りに駆けました。大内丘(おおちのおか)の谷を超え渡ること十八丈。川原民直宮桧隈邑(ひのくまのさと)の人です」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年七月条】
  • 欽明天皇7年

    高麗(こま)が大いに乱れた。およそ戦死者は二千余。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年是歳条】
    • 高麗は正月の丙午を以って中夫人のを立てて王とした。年八歳。
      狛王に三人の夫人あり。
      正夫人には子が無かった。
      中夫人は世子を生んだ。その舅氏(しゅうと)外戚。麁群である。
      小夫人も子を生んだ。その舅氏が細群である。
      狛王が重病になると、細群麁群はそれぞれその夫人の子を立てようとした。それで細群の死者二千余人となった。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇七年是歳条 百済本記云】
  • 欽明天皇8年4月

    百済が前部(ぜんほう)徳率真慕宣文奈率奇麻らを遣わして援軍を乞うた。
    そして下部(かほう)東城子言を奉って徳率汶休麻那の代わりとした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇八年四月条】
  • 欽明天皇9年1月3日

    百済の使人前部(ぜんほう)徳率真慕宣文らが帰国を申し出た。
    詔して「要請のあった援軍は必ず派遣する。速やかに王へ報告せよ」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年正月乙未条】
  • 欽明天皇9年4月3日

    百済が中部(ちゅうほう)杆率掠葉礼らを遣わして奏上していうには「徳率宣文らが勅を承り、我が国に帰って『乞うところの援軍は、時に応じて送り遣わす』という恩詔を頂き、喜ぶことに限りがございません。しかし馬津城(ましんのさし)の役「正月の辛丑に高麗が兵を率いて馬津城を囲んだ」とある。に捕虜が語って『安羅国と日本府が侵攻を勧めた』といいました。状況から見てありそうなことにも存じます。しかしその事を確かめようと三度呼びにやりましたが来ませんでした。それで深く心配しているのでございます。畏き天皇「西国では皆が日本の天皇を称えて、畏き天皇(可畏天皇)とする」とある。には何卒お調べ頂きたいと存じます。暫くは救援の兵をお留め頂き、私がご返事奉るまでお待ち頂きたいと存じます」と。
    詔して「使人の申しごとを聞いて憂える所を見れば、日本府と安羅が隣りの難事を救わなかったことは朕も心苦しく思う。また高麗に密使を立てたということは信じるべきではない。朕が命令すれば遣わすであろう。命令せずにどうして勝手にできようか。願わくは王は襟を開き帯を緩めて静かに安らぎ、深く疑い恐れることを止めるように。任那と共に先の勅のままに力を合せて北の敵を防いで各々所領を守るように。朕は若干の人を送り遣わして安羅が逃げて空いた地を埋めよう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年四月甲子条】
  • 欽明天皇9年6月2日

    使いを遣して百済に詔して「徳率宣文が帰国してその後どうであろうか。朕はお前の国が(こま)の賊に破られたと聞く。任那と共に策を講じ謀を同じくして先のように防ぐように」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年六月壬戌条】
  • 欽明天皇9年閏7月12日

    百済の使人掠葉礼らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年閏七月辛未条】
  • 欽明天皇9年10月

    三百七十人を百済に遣わして得爾辛(とくにし)に城を築くのを助けさせる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇九年十月条】
  • 欽明天皇10年6月7日

    将徳久貴固徳馬次文らが帰国来朝記事なし。を申し出た。
    因って詔して「延那斯麻都が隠れて高麗(こま)に使いを遣わしたことは、朕が虚実を問う者を遣わそう。乞うところの援軍は願いのままに停止した」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十年六月辛卯条】
  • 欽明天皇11年2月10日

    使いを遣わして百済に詔して「百済本記に云う。三月十二日辛酉に日本の使人阿比多が三隻の船を率いて都に来た」とある。「朕は将徳久貴固徳馬進文らの上表の意のままに、一つ一つ掌中を見るように教え示そう。思うところを詳しく説明しよう。大市頭他に見えない。以前の記事にある使者の内の一人と思われる。の帰国後、特に変わったことはない。今細かく報告しようと思って使いを遣わしたのである。奈率馬武は王の股肱の臣と聞く。上下に伝えることは王の心に適い、王の助けとなる。もし国家に事無く、官家となって永く天皇に仕えようと思えば、馬武を大使として朝廷に遣わすがよい」と。
    重ねて詔して「北の敵は強暴と聞く。そこで矢三十具千五百本。矢一具は五十本。を賜ろう。大事な所を防ぐように」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年二月庚寅条】
    • 三月十二日辛酉に日本の使人阿比多が三隻の船を率いて都に来た。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年二月庚寅条 百済本記云】
  • 欽明天皇11年4月1日

    百済にいた日本の使人が帰国しようとした。
    百済王聖明が使人に言うには「任那の事は勅を奉って堅く守ります。延那斯麻都の事はお尋ねがあってもなくても、ただ勅に従うのみです」と。
    そして高麗の(やっこ)六口を献上した。別に使人にも奴一口を贈った「みな爾林(にりむ)を攻めて捕えた奴である」とある。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年四月庚辰朔条】
    • 四月一日庚辰に日本の阿比多が帰還した。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年四月庚辰朔条 百済本記云】
  • 欽明天皇11年4月16日

    百済が中部(ちゅうほう)奈率皮久斤下部(かほう)施徳灼干那らを遣わして(こま)の捕虜十口を献上する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十一年四月乙未条】
  • 欽明天皇12年3月

    麦種一千石原文は一千斛。同義。を百済王に賜る。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十二年三月条】
  • 欽明天皇12年

    百済の聖明王は自ら二国「二国とは新羅・任那である」とある。の兵を率いて高麗(こま)を討って漢城の地を回復した。
    また軍を進めて平壌を討った。
    全て六郡の地を遂に回復した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十二年是歳条】
  • 欽明天皇13年4月

    箭田珠勝大兄皇子が薨じる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年四月条】
  • 欽明天皇13年5月8日

    百済・加羅・安羅が中部(ちゅうほう)徳率木刕今敦河内部阿斯比多らを遣わし、奏上して「高麗と新羅が通じて勢いを合わせ、臣の国と任那を滅ぼそうと謀っております。謹んで救兵を受け、先ず不意を突きたいと思います。軍の多少は天皇の勅に従います」と。
    詔して「今百済王・安羅王・加羅王・日本府の臣らと共に使いを遣わして申してきたことは聞き入れた。また任那と共に心を合わせ力を一つにするように。そうすれば必ず上天の擁護する福を蒙り、また天皇の霊威に頼ることが出来るであろう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年五月乙亥条】
  • 欽明天皇13年10月

    百済の聖明王「またの名は聖王」とある。西部(せいほう)姫氏(きし)達率怒唎斯致契らを遣わして釈迦仏の金銅像(かねのみかた)一躯・幡蓋(はたきぬがさ)若干・経論若干巻を献上した。
    別に上表し、広く礼拝する功徳を賞賛して「この法は諸々の法の中でも最も勝れています。解り難く入り難く、周公・孔子がなお知り給うことが出来ませんでした。この法は無量無辺の福徳果報(いきおいむくい)を生じ、すなわち無上の菩提を成し、譬えば人が如意宝珠を懐いて思うがままになるように、この妙法の宝もまた同様です。祈願すること思うがままにして乏しいところはございません。遠くは天竺から三韓に至るまで、教えに従って尊敬しております。これにより百済の王臣は謹しんで陪臣怒唎斯致契を遣わして帝国(みかど)に伝え奉り、国内に流通させて、仏が『我が法は東に伝わる』と記すことを果たそうと思うのです」と。

    この日、天皇は聞き終わると歓喜踊躍し、使者に詔して「朕は昔よりこれまでに、未だかつてこのような妙法を聞いたことがない。しかし朕は自決しない」と。
    そして群臣一人一人に問うて「西国から伝わる仏の相貌は端厳で、未だかつて見たことがない。敬うべきかどうか」と。

    蘇我大臣稲目宿禰が奏上して「西の諸国では皆が敬います。豊秋(とよあき)日本(やまと)がどうして独り背きましょうか」と。
    物部大連尾輿中臣連鎌子が同じく奏上して「我が国家、天下の王は、常に天地社稷の百八十神を春夏秋冬に祭り拝するを事とします。今改めて外の神を拝すれば、恐らく国神がお怒りになるでしょう」と。
    天皇は「それでは情願する稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」と言った。
    大臣は跪き受けて悦んだ。
    小墾田の家に安置して、懇ろに仏道を修める頼みとした。
    向原(むくはら)の家を清めて寺とした。

    後に国に疫病が流行って、民に若死する者が多く、治療することも出来なかった。
    物部大連尾輿中臣連鎌子が同じく奏上して「過去の臣の意見を用いられずに、この病気・死者を招きました。以前に戻せば必ず慶事がございましょう。早く投げ棄てられて、後の福をお求めなさいませ」と。
    天皇は「申すままにせよ」と言った。

    有司は仏像を難波の堀江に投げ棄てた。また寺に火をつけて余すことなく焼いた。
    すると天に風と雲が無いのに急に大殿に火災がおこった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年十月条】
    • 欽明天皇31年

      庚寅年に仏殿・仏像を焼き払って難波の堀江に流した。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 欽明天皇13年

    百済が漢城と平壌を棄てた。これにより新羅は漢城に入城した。今の新羅の牛頭方(ごずほう)尼弥方(にみほう)「地名未詳」とある。である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十三年是歳条】
  • 欽明天皇14年1月12日

    百済が上部(じょうほう)徳率科野次酒杆率礼塞敦らを遣わして援軍を乞う。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年正月乙亥条】
  • 欽明天皇14年1月15日

    百済の使人中部(ちゅうほう)徳率木刕今敦河内部阿斯比多らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年正月戊寅条】
  • 欽明天皇14年5月7日

    河内国が言うには「泉郡(いずみのこおり)茅渟海(ちぬのうみ)の中から仏教の楽の音がします。雷の音のように響き、日光のように麗しく照り輝いています」と。
    天皇は不思議に思い、溝辺直「此にただ直とのみ記して名を記さないのは、是を伝え写すうちに誤って失ったか」とある。を遣わして海中を探させた。
    この時に溝辺直は海に入り、果して海に浮かび照り輝く樟木を見つけ、これを取って天皇に献上した。
    画工(えたくみ)に命じて仏像二躯を造らせた。
    今の吉野寺に光を放つ樟の像である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年五月戊辰朔条】
  • 欽明天皇14年6月

    内臣「闕名」とある。を遣わして百済に使いする。そして良馬二匹・同船(もろきぶね)二隻・弓五十張・箭五十具を賜う。
    勅して「請すところの兵は王のままに用いよ」と。
    別に勅して「医博士・易博士・暦博士らは当番制にして参上退下せよ。今上件の役職の人はまさに交代の時期に当る。帰還する使いに付けて交代せよ。また卜書・暦本・様々な薬を送るように」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年六月条】
  • 欽明天皇14年7月4日

    樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸する。

    蘇我大臣稲目宿禰は勅を受け、王辰爾を遣わして船の税を記録させた。
    即ち王辰爾船長(ふねのつかさ)とした。そして船史(ふねのふひと)の姓を賜った。
    今の船連(ふねのむらじ)の先祖である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年七月甲子条】
  • 欽明天皇14年8月7日

    百済が上部(じょうほう)奈率科野新羅下部(かほう)固徳汶休帯山らを遣わして上表して言うには「去年、臣らが相談して内臣(うちのおみ)徳率次酒と任那の大夫らを遣わして海外の諸々の宮家(みやけ)原文「弥移居」の事を申し上げました。伏して恩詔をお待ちすることは春草の甘雨を仰ぐようでございます。今年にわかに聞きますのは、新羅と(こま)国が通謀して『百済と任那が日本に頻りに赴いている。思うにこれは軍兵を乞うて我が国を討とうとしているのであろう。もし事実ならば国の滅亡を踵を上げて待つことになる。まずは日本兵が発たぬ間に安羅を討ち取り、日本の路を絶とう』と言っております。その謀はこのようで、臣らはこれを聞いて深く恐れております。それで疾使(ときつかい)・軽舟を遣わして急ぎ表を申し上げます。伏して願わくは天慈をもって速やかに前軍後軍を遣わし、引き続き救援をお願い致します。秋の頃には海外の宮家を固めましょう。もし遅くなれば臍を噛んでも及ばないでしょう。派遣された軍が臣の国に着けば、衣糧にかかる費用は臣が負担します。任那に至ってもまた同様です。もし負担できなければ、臣が必ず援助して不足が無いように致します。別に的臣が天勅を受け、臣の国に来て安心しました。朝早くから夜遅くまで庶政を勤め上げ、これにより諸国はその誉れを称えました。まさに万世まで諸国を鎮めて頂こうと思いましたが、不幸にも亡くなってしまい、深く悼むところでございます。今任那を誰が治めるべきでございましょうか。伏して願わくは天慈をもって速やかにその代わりを遣わして任那を鎮めて頂きたいと存じます。また諸国は甚だ弓馬が不足しております。古より今まで天皇にお助け頂いて強敵を防いできました。伏して願わくは天慈をもって多くの弓馬を賜りたいと存じます」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年八月丁酉条】
  • 欽明天皇14年10月20日

    百済の王子余昌「明の王子、威徳王である」とある。は国内全ての兵を発して高麗(こま)国に向った。
    百合野塞(ゆりののそこ)を築いて兵士と寝食を共にした。
    夕方に遥に見渡すと、大野は肥え、平原は広くのび、人跡はまれに見えて犬の声を聞くこともない。
    にわかに鼓笛の音が聞こえた。
    余昌は大いに驚き、鼓を打って応えた。
    夜通し固く守り、薄明るくなってから広野の中を見ると、青山が覆うように旗が充満していた。

    明けがた頸鎧(あかのへのよろい)頸部を守る鎧状の防具。を着けた者が一騎、(くすび)軍中で用いる小さな銅鑼。を挿した者が二騎、豹尾(なかつかみのお)を挿した者が二騎、合わせて五騎が轡を並べてやってきて、尋ねて言うには「部下たちが『我が野の中に客人がいます』と言っております。お迎えしないわけにはいきません。願わくは礼を以って応答される人の姓名・年・位を知りたいと思います」と。
    余昌は答えて「姓は同姓高麗国王の姓に同じの意か。諸書では百済王室は高麗(高句麗)またはその祖である扶余(夫余)から出たとする。。位は杆率。年は二十九」と。
    百済が反対に尋ねると、また前の法のように答えた。

    遂に旗を立てて合戦となった。

    百済は鉾で高麗の勇士を馬から刺し落して斬首した。
    そして鉾の先に頭を刺し挙げて皆に示した。
    高麗の軍将は憤怒すること甚だしかった。
    この時の百済の歓声は天地を裂くほどであった。
    またその副将は鼓を打って激しく戦い、高麗王を東聖山の上に追い退けた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十四年十月己酉条】
  • 欽明天皇15年1月7日

    皇子の渟中倉太珠敷尊を立てて皇太子とする。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年正月甲午条】
  • 欽明天皇15年1月9日

    百済が中部(ちゅうほう)木刕施徳文次前部(ぜんほう)施徳曰佐分屋らを筑紫に遣わして、内臣・佐伯連らに言うには「徳率次酒杆率塞敦らが去年の閏月の四日に参りましたときに『「臣らとは内臣をいう」とある。らは来年の正月に行くであろう』と仰りましたが確かではありません。お越しになるのでしょうか。また軍の数はどれ程でしょうか。少しでも話を聞いて予め陣営を設置したいと思っております」と。

    また別に言うには「畏き天皇の詔を承り、筑紫に詣でて賜る軍を見送ることの喜びは他と比べようがございません。今年の役は以前より甚だ危険でございますので、どうか軍の派遣は正月に間に合うようにお願い申し上げます」と。

    内臣は勅を承って「すぐに援軍の数一千・馬一百疋・船四十隻を遣わす」と返答した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年正月丙申条】
  • 欽明天皇15年2月

    百済が下部(かほう)杆率将軍三貴上部(じょうほう)奈率物部烏らを遣わして援軍を乞うた。
    そして徳率東城子莫古を奉って、前の番の奈率東城子言に代えた。
    五経博士(ごきょうのはかせ)王柳貴固徳馬丁安に代えた。
    曇恵ら九人を僧道深ら七人に代えた。

    別に勅を承って、易博士施徳王道良・暦博士固徳王保孫・医博士奈率王有㥄陀・採薬師施徳潘量豊固徳丁有陀・楽人施徳三斤季徳己麻次季徳進奴対徳進陀を奉った。

    皆申すままに代えた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年二月条】
  • 欽明天皇15年3月1日

    百済の使人中部(ちゅうほう)木刕施徳文次らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年三月丁亥朔条】
  • 欽明天皇15年5月3日

    内臣が舟軍を率いて百済に向う。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年五月戊子条】
  • 欽明天皇15年12月

    百済が下部(かほう)杆率汶斯干奴を遣わし、上表して「百済の王臣及び安羅にいる倭の諸臣達、任那諸国の旱岐らが申し上げます。思い見れば斯羅(しらき)は無道にて天皇を恐れず、(こま)と心を同じくして海北の宮家を損ない滅ぼそうとしています。臣らは共に議り、有至臣らを遣わし、兵を乞うて斯羅を征伐しようとしました。そして天皇が派遣された有至臣が軍を率いて六月に到着しました。臣らは深く喜びました。十二月九日を以って斯羅を攻めました。臣は先ず東方軍の指揮官物部莫哥武連を遣わし、その方の兵士を率いさせ、函山城を攻めさせました。有至臣が連れてきた竹斯物部莫奇委沙奇は火箭を射るのに優れ、天皇の威霊を蒙り、九日の夕には城を焼いて落しました。それで単使(ひとえつかい)馳船(ときふね)を遣わして奏上します」と。

    別に奏上して「もし斯羅のみであれば有至臣が率いた兵だけで足りるでしょう。今の狛と斯羅は心を同じくして力を合わせています。功を成すことは難しく、伏して願いますは速やかに竹斯島(つくしのしま)の上に諸兵を遣わして臣の国をお助け頂きたい。また任那を助ければ事は成功します」と。
    また奏上して「臣は別に兵一万人を遣わして任那を助けますことを合わせて奏上します。事はまさに急です。単船(ひとえふね)を遣して奏上します。良い錦二疋・毾㲪(おりかも)獣毛性の敷物。一領・斧三百口、及び捕えた城民である男二人・女五人を奉ります。軽薄なもので恐縮です」と。

    余昌は新羅討伐を謀った。
    老臣は「天は未だ味方しておらず、恐らく禍が及びましょう」と諫めた。
    余昌が言うには「老人よ、何を怯えている。我々は大国に仕えている。何を恐れることがあるか」と。

    遂に新羅国に入って久陀牟羅塞(くだむらのそこ)を築いた。
    その父明王余昌が長い戦いに苦しんで寝食も足りていないことを憂慮した。
    父の慈愛に欠けることも多く、子としての孝を果たすことは難しい思った。そこで自ら出向いて労った。
    新羅は明王が来たことを聞いて国中の兵を起し、道を断って撃ち破った。
    この時に新羅は佐知村(さちすき)飼馬奴(うまかいやっこ)苦都、またの名は谷智に言うには「苦都は賤しい奴である。明王は名のある主である。賤しい奴を使って名のある主を殺そう。後世に伝わって人々の口から忘れることがないであろう」と。
    苦都明王を捕え、再拝して「王の首を斬ります」と言った。
    明王は答えて「王の頭は奴の手にかかってはならない」と言った。
    苦都は「我が国の法では盟に背けば国王と雖も奴の手にかかります」と言った。

    明王は天を仰いで嘆息して涙を流した。許して言うには「常に痛みが骨髄まで達するほどの思いをしてきたが、考えてもどうしようもない」と。そして首を伸ばした。
    苦都は首を斬って殺し、穴を堀って埋めた。

    余昌は遂に囲まれて脱出できなかった。兵は慌てて成す術を知らなかった。
    弓の名人に筑紫国造という者がいた。進み出て弓を引き、狙いを定め、新羅の騎卒で最も勇壮な者を射落とした。
    発した矢の鋭いことは、鞍の前後の(くらぼね)を射抜いて(よろい)の襟に及んだ。
    また続けて発した矢は雨の如く激しさを増して止まらず、包囲していた軍は退却した。

    これにより余昌及び諸将らは間道より逃げ帰ることが出来た。
    余昌は国造の射撃で包囲軍を退却させたことを讃え、尊んで鞍橋君と名付けた。

    新羅の将らは百済が疲れきっていることを知り、全滅させるために相談した。
    一人の将が言うには「してはなりません。日本の天皇は任那の事で、しばしば我が国を攻めました。ましてや百済の官家を滅ぼそうとすれば、必ず後の患いを招きます」と。
    それで中止した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条】
    • 明王は胡床に乗り、佩いていた刀を解き、谷知に授けて斬らせた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条 一本云】
    • 新羅は明王の頭骨を収め、礼を以って残りの骨を百済に送った。
      新羅王は明王の骨を北庁の階下に埋めた。この庁を都堂(とどう)未詳。と名付けた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年十二月条 一本云】
  • 欽明天皇16年2月

    百済の王子余昌王子「王子恵は威徳王の弟である」とある。を遣わして「聖明王は賊の為に殺されました」と奏上した。
    天皇は聞いて傷み恨んだ。使者を遣わして難波津か。に迎えて慰問させた。

    許勢臣名は不明。は王子に「ここに留まりますか。それとも本国へ向われますか」と問うた。
    は答えて「天皇の徳に頼って父王の仇を報いたいと思います。もし哀れみを垂れて多くの武器を賜れば、恥を雪ぎ、仇を報いることが臣の願いです。臣の去就は、ただ命に従うのみです」と。

    しばらくして蘇我臣名は不明。が尋ねて「聖王は天道地理を悟り、名は四方八方に知られていた。永く安寧を保ち、海外諸国を統べ治め、千年万年と天皇にお仕えすると思っていたが、思いがけないことになってしまった。にわかに遥かに別れ、水が帰らぬように、玄室(くらきや)にお休みされるとは。何という痛酷の甚だしさよ。何という悲哀の甚だしさよ。心のある者に悼まない者があろうか。もしや何かの咎でこの禍を招いたのか。今また何の策を用いて国家を鎮められようか」と。
    が答えて「臣は暗愚で大計を知りません。ましてや禍・福に因るところや国家の存亡などと」と。
    蘇我卿が言うには「昔、大泊瀬の天皇の御世に汝の国が高麗の為に攻められたことの危うさは累卵のようでありました。天皇が神祇伯に仰せ付けられて、策を神祇にお尋ねになられた。祝者(はふり)が神の言葉を告げて『(くに)を建てた神を屈請し、亡ぼうとする主を救えば、必ず国家は静まり、人民もまた安らぐであろう』と言った。これによって神をお招きし、行かれてお救いになった。それで国家は安らいだのです。原ねてみれば邦を建てし神とは、天地が分れた頃、草木も物語した時に、天から降られて国家をお造りになった神です。聞くところによると、あなたの国は祀ることをしないといいますが、まさに今、以前の過ちを悔いて神の宮を修理し、神の御霊をお祭りすれば、国家は栄えるでしょう。あなたはこれを忘れてはなりません」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十六年二月条】
  • 欽明天皇16年7月4日

    蘇我大臣稲目宿禰穂積磐弓臣らを遣して、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいのみやけ)を置かせる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十六年七月壬午条】
  • 欽明天皇16年8月

    百済の余昌が諸臣らに言うには「少子(やつかれ)が今願うのは、父王の為に出家して修道することである」と。
    諸臣・人民が答えて言うには「君王が出家して修道したいと思うということは、教えを奉じられてしまうのでしょうか。ああ前の思慮不足が後の大患となったのは誰の過ちでしょう。百済国は高麗・新羅が争って滅ぼそうとしています。国を開いてこの年に至り、今この国の宗廟を何れの国に授けるというのでしょう。あるべき道理を明かにお教え下さい。もしよく老人の言葉を用いられれば、どうしてこのようになりましょうか。どうか前の過ちを改めて出家はお止め下さい。もし願いを果そうとお思いであれば国民を得度させるべきです」と。
    余昌は「もっともである」と答えた。
    即ち臣下に図った。

    臣下は相談して、百人を得度させ、多くの幡蓋(はたきぬがさ)を造り、種々の功徳を云々百済の文献からの引用か。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十六年八月条】
  • 欽明天皇17年1月

    百済の王子が帰国を願い出た。
    よって多くの兵仗・良馬を賜り、また賞禄も多く、衆人は感嘆した。
    阿倍臣(あべのおみ)佐伯連(さえきのむらじ)播磨直(はりまのあたい)を遣わし、筑紫国の軍船を率いて国まで護送させた。

    別に筑紫火君「百済本記に云う。筑紫君の子、火中君の弟」とある。筑紫君が誰を指すのか不明。筑紫葛子または筑紫磐井か。それとも別の誰かか。を遣わして勇士一千を率いて弥弖(みて)「弥弖は津の名」とある。に護送させ、津の路の要害の地を守らせた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年正月条】
  • 欽明天皇17年7月6日

    蘇我大臣稲目宿禰らを備前(きびのみちのくち)児島郡(こじまのこおり)に遣わして屯倉を置いた。
    葛城山田直瑞子田令(たつかい)田令。此云陀豆歌毘。とした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年七月己卯条】
  • 欽明天皇17年10月

    蘇我大臣稲目宿禰らを倭国の高市郡(たけちのこおり)に遣わして韓人大身狭屯倉(からひとのおおむさのみやけ)「ここで言う韓人とは百済のことである」とある。高麗人小身狭屯倉(こまひとのおむさのみやけ)を置かせた。
    紀国に海部屯倉(あまのみやけ)を置かせた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年十月条】
    • 各地の韓人を大身狭屯倉の田部とする。
      高麗人を小身狭屯倉の田部とする。
      これは即ち韓人・高麗人を田部としたので屯倉の名としたのである。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十七年十月条 一本云】
  • 欽明天皇18年3月1日

    百済の王子余昌が王位を嗣いだ。これを威徳王という。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十八年三月庚子朔条】
  • 欽明天皇21年9月

    新羅が弥至己知奈末を遣わして調賦(みつき)を献じた。
    饗応されて賜物も常より多かった。
    奈末は喜んで退出して言うには「調賦の使者は国家として重要なものであり、私議は軽んじ賤しまれるものです。使者は人民の命が懸っていますが、選ばれて用いられる時に卑しまれてしまいます。王政の弊はこれによります。願わくは良家の子を使者とし、卑賤の者を使者にしてはなりません」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十一年九月条】
  • 欽明天皇22年

    新羅が久礼叱及伐干を遣わして調賦を奉った。
    接待役の礼遇が常より劣った。
    及伐干怒り恨んで帰国した直後の是歳条を見るに調賦を献上せずに帰国したか。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十二年条】
  • 欽明天皇22年

    また二十二年条から続く。奴氐大舎を遣わして前の調賦直前の二十二年条にある調賦のことか。を献上した。
    難波の大郡(おおこおり)に諸国の使者を案内する時に、接待役の額田部連(ぬかたべのむらじ)葛城直(かずらきのあたい)らは、使者新羅の使者。を百済の下に列して導いた。
    大舎は怒って帰った。客舎に入らず、船に乗って穴門に至った。
    すると穴門の館を修理していた。
    大舎が「どの客の為に修理しているのか」と問うた。
    工匠の河内馬飼首押勝は欺いて「西方の無礼を詰問するために遣わされた使者をお泊めする宿です」と言った。
    大舎は帰国してこの言葉を報告した。
    それで新羅は阿羅波斯山(あらはしむれ)に城を築いて日本に備えた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十二年是歳条】
  • 欽明天皇23年1月

    新羅が任那の官家を討ち滅ぼした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年正月条】
    • 二十一年に任那が滅んだ。
      総じて任那と言うが、分けると加羅国(からのくに)安羅国(あらのくに)斯二岐国(しにきのくに)多羅国(たらのくに)卒麻国(そちまのくに)古嗟国(こさのくに)子他国(したのくに)校異:古子他国散半下国(さんはんげのくに)乞飡国(こちさんのくに)稔礼国(にむれのくに)という。
      合せて十国である。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年正月条 一本云】
  • 欽明天皇23年6月

    詔して「新羅は西夷の少し醜い国である。天に逆らい無状である。我が恩義を違え、我が官家を破った。我が人民を毒し、我が郡県を滅ぼした。我が気長足姫尊は霊聖聡明で、天下をお巡りなされた。諸人を労り、万民を養育なされた。新羅が窮して帰るのを見て哀れみ、新羅王の討たれそうとなる首を全うし、新羅に要害の地を授け、新羅を並外れて栄えるようにお助けになられた。我が気長足姫尊は新羅に軽薄であっただろうか。我が人民は新羅を怨んでいただろうか。新羅が長戟・強弩を以って任那を攻め、距牙・鉤爪で人民を虐げた。肝を裂き足を切り、それだけでは飽き足らず、骨をむき出しにして屍を焼いた。その酷さに何とも思わず、任那の族姓百姓以下は料理されて膾となった。王土にあり、王臣として人の粟を食べ、人の水を飲みながら、これを忍び聞いてどうして悼まないことがあろうか。ましてや太子・大臣は寄り添いあって血に泣き怨みを忍ぶ縁故がある。大臣の任に当れば、身を苦しめ労するものであり、先帝の徳を受けて後の代の位に当れば、瀝胆抽腸の思いで共に奸逆を殺し、天地の痛酷を雪ぎ、君父の仇讎を報いなければ、死んでも臣子の道の成らざることを恨むであろう」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年六月条】
  • 欽明天皇23年6月

    ある人が馬飼首歌依を讒言して「歌依の妻逢臣讃岐の下鞍に異なるところがあり、よくよく見ると皇后の御鞍です」と。
    すぐに捕えて官吏に渡し、厳しく問い質した。
    馬飼首歌依は言い訳して誓って言うには「嘘です。真実ではありません。もしこれが事実であれば必ず天災を被るでしょう」と。
    遂に拷問されて地に伏して死んだ。
    死んで間もない時に、急に大殿に火災があった。
    官吏はその子守石名瀬氷を捕縛して火中に投げ入れようとして「火に投げる刑は、おそらく古の制である」とある。呪って言うには「我が手が投げるのではない。祝の手が投げるのである」と。
    呪い終って火に投げ入れようとした時に、守石の母が祈請して「子が火中に投げ入れれば天災がやって来るでしょう。どうか祝人に付けて神奴(かむやっこ)にして下さい」と言った。
    それで母の願いにより、許されて神奴とした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年六月是月条】
  • 欽明天皇23年7月1日

    新羅が使いを遣わして調賦を献上した。
    その使人は新羅が任那を滅ぼしたことを知っていたので、国恩に背いたことを恥じて敢えて帰国しないことを願い出た。
    遂に留まって本土には帰らず、国民同様に扱われた。今の河内国の更荒郡(さららのこおり)鸕鷀野邑(うののさと)の新羅人の先祖である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年七月己巳朔条】
  • 欽明天皇23年7月

    大将軍紀男麻呂宿禰を遣わして、兵を率いて哆唎(たり)から出発させた。
    副将河辺臣瓊缶居曽山(こむそれ)から出発した。
    そして新羅が任那を攻めた状況を問責しようとした。

    遂に任那に至り、薦集部首登弭を百済に遣わして軍の計略を約束した。
    登弭は妻の家に泊り、印書・弓箭を道に落としてしまった。
    新羅はつぶさに軍の計略を知った。
    にわかに大軍を起こすと次々に敗北して、降伏したいと申し出た。

    紀男麻呂宿禰は勝ちを得ると軍を率いて百済の軍営に入った。
    軍中に令して「たとえ勝っても敗れることがあることを忘れてはならない。安全でも必ず危険を考慮することは古からの善い教えである。今いる場所は山犬と狼が交わるような場所である。軽率なことをして後難を忘れてはならない。また平安の世でも刀剣は手離してはならない。君子の武備は怠ってはならない。深く警戒して、この令を務めるように」と。
    士卒は心服した。

    河辺臣瓊缶は独り進んで転戦し、向う所すべてを抜いた。
    新羅は白旗を挙げ武器を捨てて降伏した。
    河辺臣瓊缶は元より軍事を知らず、同じように白旗を挙げて独り進んだ。
    新羅の闘将は「将軍河辺臣は投降するようだ」と言うと進軍して迎え撃ち、鋭く攻めて撃破した。
    先鋒の被害は甚だ多かった。

    倭国造手彦は救い難いことを知り、軍を棄てて遁逃した。
    新羅の闘将は手に鉤戟(ほこ)先の曲がった戟(げき)。を持ち、城の堀まで追って戟で撃った。
    手彦は駿馬に乗って堀を飛び越え、僅かに難を免れた。
    闘将は堀の前で歎いて「久須尼自利(くすにじり)「これは新羅語だが未詳である」とある。」と言った。

    河辺臣は遂に軍を引いて退き、すぐに野営した。
    このことを士卒は軽蔑して従う気持ちも薄れてきた。

    闘将は自ら陣中に行き、河辺臣瓊缶ら及びそれに従う婦女を悉く生け捕りにした。
    父子・夫婦は互いに哀れむゆとりもなかった。

    闘将が河辺臣に「自分の命と婦女、どちらが惜しいか」と問うと、答えて「何で一人の女を惜しんで禍を取ろうか。何といっても命に過ぎるものはない」と言った。
    遂に許して闘将の妾とした。
    闘将は人目を憚らずにその婦女を犯した。婦女は後に帰還した。
    河辺臣はそばに行って語りかけたが、婦人はひどく恥じ恨み、「あなたは軽々しく私の身を売りました。いま何の面目でお会いできましょうか」と言って遂に従わなかった。
    この婦人は坂本臣の女の甘美媛という。

    同じ時に虜となった調吉士伊企儺は、人となりは勇烈で遂に降伏しなかった。
    新羅の闘将は抜刀して斬ろうとした。
    無理に(はかま)を脱がし、尻臀(しりたぶら)を日本に向けさせて、大声で「日本の将、我が尻を喰らえ」と叫ばせようとした。
    即ち「新羅の王、我が尻を喰らえ」と叫んだ。責められても前の如く叫んだ。
    これにより殺された。
    その子舅子は父を抱いて死んだ。
    伊企儺の言葉を奪い難きことこのようであった。
    これを諸将も惜しんだ。
    その妻大葉子も虜となった。悲嘆にくれて歌を詠んだ。

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    ある人が答えて

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    と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年七月是月条】
  • 欽明天皇23年8月

    天皇は大将軍大伴連狭手彦を遣わし兵数万を率いさせて高麗(こま)を討たせた。
    狭手彦は百済の計を用いて高麗を打ち破った。
    その王は垣を越えて逃げた。
    狭手彦は遂に勝ちに乗じて宮に入り、全ての珍宝・金品・七織帳(ななえのおりもののとばり)鉄屋(くろがねのいえ)共に未詳。「旧い本に云うには、鉄屋は高麗の西の高楼の上に在り、織帳は高麗王の内寝(おおとのに)に張ってあったという」とある。また「鉄屋は長安寺に在る。この寺は何れの国に在るかは知らない」とある。を得て帰還した。
    七織帳は天皇に献上した。
    (よろい)二領・金飾刀二口・銅鏤鍾(あかがねのえりたるかね)三口・五色の幡二竿・美女媛「媛は名である」とある。・その従女吾田子蘇我稲目宿禰大臣に送った。大臣は二女を召し入れて妻とし、軽曲殿(かるのまがりどの)に置いた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条】
    • 十一年、大伴狭手彦連は百済国と共に、高麗王陽香比津留都(ひつるつ)に退却させた。

      【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年八月条 一本云】
  • 欽明天皇23年11月

    新羅が使いを遣わして献上品と調賦を奉った。
    使人は新羅が任那を滅ぼしたことを日本が憤っていることを知り、敢えて帰還しないと申し出た。
    処罰を恐れて本土には帰らなかったので人民と同じに扱った。
    今の摂津国の三島郡(みしまのこおり)埴廬(はにいお)の新羅人の先祖である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十三年十一月条】
  • 欽明天皇26年5月

    高麗人頭霧唎耶陛らが筑紫にやってきて山背国に置かれた。
    今の畝原(うねはら)奈羅(なら)山村(やまむら)の高麗人の先祖である。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十六年五月条】
  • 欽明天皇28年

    国々が大水によって飢えに苦しみ、あるいは人が人を食った。
    傍の郡の穀物を運んで助け合った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二十八年条】
  • 欽明天皇30年1月1日

    詔して「田部を設置してから久しい。年齢が十余りになっても籍から漏れて課役を免れる者が多い。胆津「胆津は王辰爾の甥である」とある。を遣わして白猪田部(しらいのたべ)(よほろ)の籍を調べ定めよ」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十年正月辛卯朔条】
  • 欽明天皇30年4月

    胆津が白猪田部の丁者を調べて詔のままに籍を定めた。果して田戸が完成した。
    天皇は胆津が籍を定めた功を褒めて白猪史(しらいのふひと)の姓を賜った。
    即ち田令(たつかい)に任じて瑞子の副官とした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十年四月条】
  • 欽明天皇31年3月1日

    蘇我大臣稲目宿禰が薨じる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年三月甲申朔条】
  • 欽明天皇31年4月2日

    泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)に行幸する。

    越の人江渟臣裾代が都に参って奏上して「高麗の使人が風浪に苦しんで港を見失い、水に任せて漂流して岸に着きました。郡司が隠匿しておりますので私がご報告致します」と。
    詔して「朕が帝業を承って数年、高麗が迷って初めて越の岸に着いた。漂流して苦しんだが命は助かった。良い政治が広く行き渡り、徳は大いに盛り、慈しみの教化はあまねく通い、大きな恩が果てしなく広がっているからではないであろうか。有司(つかさ)は山背国の相楽郡(さがらのこおり)に館を建てて、厚く助け養うように」と。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年四月乙酉条】
  • 欽明天皇31年4月

    天皇は泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)から帰り、東漢氏直糠児葛城直難波を遣わして高麗の使人を呼びに向わせた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年四月是月条】
  • 欽明天皇31年5月

    膳臣傾子を越に遣わして高麗の使いをもてなした。
    大使は膳臣を都の使いということを知り、道君に言うには「あなたが天皇でないということは私が疑った通りである。あなたは膳臣に平伏した。一国民と知るには十分である。以前に私を偽って調を自分の物にした。速やかに返還せよ。煩わしい言葉で飾ってはならない」と。
    膳臣はこれを聞き、人を使ってその調を探し、返還させて(みやこ)に復命した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年五月条】
  • 欽明天皇31年7月1日

    高麗の使いが近江に到着する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年七月壬子朔条】
  • 欽明天皇31年7月

    許勢臣猿吉士赤鳩を遣わし、難波津(なにわのつ)から出発させた船を狭狭波山(ささなみやま)に引き上げ、船を装飾して近江の北の山で出迎え、山背(やましろ)高楲館(こまひのむろつみ)に引き入れた。
    そして東漢坂上直子麻呂錦部首大石を遣わして守らせた。
    さらに高麗の使者を相楽(さがらか)の館でもてなした。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十一年七月是月条】
  • 欽明天皇32年3月5日

    坂田耳子郎君を新羅に遣わして任那を滅ぼした理由を問わせた。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年三月壬子条】
  • 欽明天皇32年3月

    高麗の貢物と表は未だに奏呈出来ずにいた。
    数日を経て良日を占って待った。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年三月是月条】
  • 欽明天皇32年4月15日

    天皇は病に臥した。
    皇太子は外に出て不在だったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。
    大殿に引き入れ、その手を取って「朕の病は重い。後の事はお前に任せる。お前は新羅を討って任那を封じ建てよ。また夫婦のように相和するようになれば死んでも後悔はない」と詔した。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月壬辰条】
  • 欽明天皇32年4月(15日 ~ 29日)

    天皇は遂に大殿で崩じた。時に年若干。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年四月是月条】
    • 欽明天皇32年4月

      志帰島天皇が天下を治めること卌一年。
      辛卯年四月に崩じた。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 欽明天皇32年5月

    河内の古市(ふるいち)に殯する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年五月条】
  • 欽明天皇32年8月1日

    新羅が弔使の未叱号失消らを遣わして殯に挙哀する。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年八月丙子朔条】
  • 欽明天皇32年8月

    未叱号失消らが帰途に就く。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年八月是月条】
  • 欽明天皇32年9月

    桧隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇三十二年九月条】
    • 陵は桧前坂合岡(ひのくまのさかあいのおか)である。

      【上宮聖徳法王帝説】