大河内味張

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名前
  • 氏(ウジ):大河內【日本書紀】(おおしこうち, おほしかふち)大河内
  • 姓(カバネ):直【日本書紀】(あたい, あた
  • 名:味張【日本書紀】(あじはり, あぢはり)
  • 名:黑梭【日本書紀】(く)黒梭
  • 名:里梭校異【日本書紀】(さ
生年月日
( ~ 安閑天皇元年7月1日)
没年月日
(安閑天皇元年閏12月4日 ~ )
出来事
  • 安閑天皇元年7月1日

    安閑天皇が詔して「皇后は天子の身分に等しいが、外部には御名が伝わらない。それで屯倉(みやけ)の地を充てて内宮を建て、後世に遺したい」と。
    そこで勅使を遣わして良田を探した。

    勅使は勅を受け、大河内直味張。またの名は黒梭に言うには「今お前は肥えた雌雉田(きじた)良田の意か。を進奉しなさい」と。
    味張は急に惜しくなり、勅使を欺いて「この田は旱魃では水を送りがたく、(にわたずみ)が入れば冠水します。苦労すること極めて多く、収獲は甚だ少いのです」と言った。

    勅使は言葉のままに復命して隠すことは無かった。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年七月辛巳朔条】
  • 安閑天皇元年閏12月4日

    天皇が三島に行幸した。

    大伴大連が勅を受けて言うには「国中には封土に非ざるはなく、天下には王域に非ざるはない。それで先の天皇は御名を顕し、広大な天下に副い、光り麗しい日月のように長駕して民を愛撫し、都の外に出ては国内を磨き照らして限り無く充たされた。御徳は天地の果てまで達し、四方八方まで行き渡った。礼を定めて功成ることを告げ、楽を作って政治が定まっていることを明らかにした。福に応え誠に至れば、祥慶は往歳に符合する。今お前味張は国内の人民一人に過ぎない。急に王地を惜しみ、勅使を軽んじて背いた。味張は今後、郡司に預かることはない」と。

    大河内直味張は恐れ畏まって後悔した。そして地に伏して冷や汗を流した。
    大連に言うには「愚民の罪は万死に当ります。伏してお願い申し上げます。郡ごとに钁丁(くわよほろ)を春には五百丁、秋には五百丁、天皇に奉献致します。子々孫々に至るまで絶やしません。これによって生を乞い、永く戒めと致します」と。

    別に狭井田(さいた)六町を大伴大連に賂した。

    三島(みしま)竹村屯倉(たかふのみやけ)には河内県(かわちのあがた)部曲(うじやっこ)を田部とすることの始まりがここに起こったのであろう。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年閏十二月壬午条】