大伴金村

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名前
  • 氏(ウジ):大伴【日本書紀】(おおとも, おほも)
  • 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連
  • 名:金村【日本書紀】(かなむら)
  • 大伴金村大連【日本書紀】(おおとものかなむらのおおむらじ, おほかなむらおほむらじ)大伴金村大連
  • 大伴大連金村【日本書紀】(おおとものおおむらじかなむら, おほおほむらじかなむら)大伴大連金村
  • 金村大連公【新撰姓氏録抄】(かなむらのおおむらじきみ, かなむらおほむらじ)金村大連公
  • 金村大連【新撰姓氏録抄】(かなむらのおおむらじ, かなむらおほむらじ)金村大連
キーワード
  • 後裔は左京神松造(かみまつのみやつこ)校異:神私造・大和国仲丸子(なかのわにこ)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 仁賢天皇11年8月29日)
没年月日
(欽明天皇元年9月5日 ~ )
  • 大伴磐おおとものいわ【日本書紀 巻第十八 宣化天皇二年十月壬辰朔条】【母:不明】
  • 大伴狭手彦おおとものさてひこ【日本書紀 巻第十八 宣化天皇二年十月壬辰朔条】【母:不明】
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 大連おおむらじ【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十二月条】
出来事
  • 仁賢天皇11年8月

    太子小泊瀬稚鷦鷯尊後の武烈天皇。の命令で数千の兵を率いて鮪臣乃楽山(ならやま)で討ち取る。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年八月条】
  • 仁賢天皇11年11月11日

    大伴金村連が太子に言うには「真鳥の賊をお撃ちなさいませ。御命令があれば討伐致します」と。
    太子が言うには「天下が乱れようとしている。世に優れた人物でなければ治めることはできない。よくこれを治める者は連であるか」と。
    そして共に相談した。

    大伴大連は兵を率いて自ら将として大臣の家を囲み、火を放って焼いた。
    その指揮に兵は雲のように靡いた。
    真鳥大臣は事の不達成を恨み、身の危険が避けられない事を知った。
    計画は頓挫して望みは絶え、広く塩を指差して呪った。
    遂に殺された。殺戮は子弟にまで及んだ。

    呪った時に角鹿(つぬが)の海の塩のみを忘れて呪わなかった。
    それで角鹿の塩を天皇の大御物とし、他の海の塩を天皇は忌むのである。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十一月戊子条】
  • 仁賢天皇11年12月

    大伴金村連が賊の平定を終えて太子に政を返した。
    尊号を奉ろうとして言うには「今億計天皇仁賢天皇の御子は陛下のみでございます。人民がより所とするは二つとございません。また皇天の威光を頼りにして凶党を払い除きました。英略雄断は天威(あまついきおい)天禄(あまつしるし)を盛んにしました。日本(やまと)には主が必要でございます。日本の主は陛下以外に誰がおりましょうか。伏して願わくは、陛下、天地の神に答えて大命を弘め宣べ、日本をお照らし下さい。大いに銀郷(たからのくに)をお受け下さい」と。

    ここに太子は司に命じて、壇場(たかみくら)泊瀬列城(はつせのなみき)に設けて天皇に即位した。
    遂に都を定めた。

    この日、大伴金村連を大連とする。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇即位前紀 仁賢天皇十一年十二月条】
  • 武烈天皇8年12月8日

    武烈天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十六 武烈天皇八年十二月己亥条】
  • 武烈天皇8年12月21日

    大伴金村大連が議って言うには「まさに今、後嗣は絶えてしまった。天下は何れに心を繋げようか。古より今に至るまで、禍はこれによって起る。いま足仲彦天皇仲哀天皇の五世孫の倭彦王丹波国(たにわのくに)桑田郡(くわたのこおり)にいらっしゃる。試しに武器を用意して御輿を挟み守ってお迎えして、人主(きみ)としてお立ち頂こう」と。
    大臣・大連らは、皆これに従い、計画どおりに迎えようとした。

    倭彦王は迎えの兵を遠くに見ると、懼然として色を失った。
    そして山谷に逃げて行方知れずとなった。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇即位前紀 武烈天皇八年十二月壬子条】
  • 継体天皇元年1月4日

    大伴金村大連が更に議って言うには「男大迹王後の継体天皇。は性格が慈悲深く、孝に順っていらっしゃる。皇位を継承するにふさわしい。慇懃にお勧めして帝業を栄えさせよう」と。
    物部麁鹿火大連許勢男人大臣ら皆が言うには「子孫を詳しく選んでみると、賢者はただ男大迹王のみである」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月甲子条】
  • 継体天皇元年1月6日

    男大迹天皇を迎えるため、臣・連らに(しるし)を持たせ、御輿を備えて三国(みくに)に遣わす。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月丙寅条】
  • 継体天皇元年1月24日

    男大迹天皇樟葉宮(くすはのみや)に至る。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年正月甲申条】
  • 継体天皇元年2月4日

    大伴金村大連は跪いて天子の璽符(みしるし)の鏡・剣を献上して再拝した。
    男大迹天皇が辞退して言うには「民を子として国を治めるは重大な事である。私は不才で上に立つには不足である。願わくは思いを巡らせて賢者を選んでほしい。私では不適当である」と。
    大伴大連は地に伏して強く請願した。
    男大迹天皇は西に向って三度、南に向って二度譲った。
    大伴大連らが言うには「私たちが考えるには、大王が民を子として国を治めることが最適でございます。私たちは宗廟社稷の為に、計りごとを軽々しくは致しません。どうか皆の願いをお聞き入れください」と。
    男大迹天皇が言うには「大臣(おおおみ)大連(おおむらじ)将相(まえつきみ)・諸々の臣が私を推すのであれば、私も敢えて背くことはしない」と。
    そして璽符を受けた。


    この日、天皇に即位した。

    大伴金村大連を大連許勢男人大臣大臣物部麁鹿火大連大連とすることは元の通りであり、これを以って大臣・大連らを各々職位のままに任じた。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年二月甲午条】
  • 継体天皇元年2月10日

    大伴大連が奏上して「私が聞くところによりますと、先々の王が世をお治めたまうに、太子が無ければ天下をよくお治めになることは出来ず、後宮に睦びが無ければ後嗣は得られません。このために白髪天皇は後嗣無く、私の祖父大伴大連室屋が命を受けて、国毎に三種の白髪部(しらかべ)を置いて(三種とは、一に白髪部舎人(しらかべのとねり)。二に白髪部供膳(しらかべのかしわで)。三に白髪部靭負(しらかべのゆけい)である)、後世に名を留めようとしました。何と傷ましいことでしょう。どうか手白香皇女を立てて皇后とし、神祇伯らを遣わして神祇を祭り敬い、天皇の御子をお求めになられ、民の望みにお答え頂きたく存じます」と。
    天皇は「よろしい」と言った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇元年二月庚子条】
  • 継体天皇6年12月

    百済が使いを遣わして朝貢した。

    別に上表文を奉って任那国の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あろしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請した。
    哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
    大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
    物部大連麁鹿火を勅使とした。

    物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇応神天皇に授けました。それで大后気長足姫尊神功皇后と大臣武内宿禰が国毎に官家(みやけ)を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
    大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
    その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
    大連は諌めに従った。

    こうして勅使を改めた。
    賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。

    大兄皇子後の安閑天皇。は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
    驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝応神天皇の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
    日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
    使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。

    ここに流言があって「大伴大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済から賄賂を受けている」と。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇六年十二月条】
  • 継体天皇21年6月3日

    天皇が大伴大連金村・物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに詔して「筑紫磐井が背いて西戎の地を我が物としている。誰を将とするのが良いか」と。
    大伴大連らが言うには「正直で仁・勇に勝れ、兵事に通じること麁鹿火の右に出る者はおりません」と。
    天皇は「ゆるす」と言った。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十一年六月甲午条】
  • 継体天皇23年4月7日

    任那王己能末多干岐『己能末多というのは、おそらく阿利斯等であろう』とある。が来朝して大伴大連金村に言うには「海外の諸国に胎中天皇が官家を置かれて、本土を棄てさせずにその地に封じられたのは良いことでした。いま新羅は元より賜わる封地の限りを違えて、しばしば越境して侵攻してきます。願わくは天皇に奏上して我が国をお救い頂きたい」と。
    大伴大連は乞われるままに奏上した。

    【日本書紀 巻第十七 継体天皇二十三年四月戊子条】
  • 継体天皇25年2月7日

    継体天皇が譲位して安閑天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇即位前紀 継体天皇二十五年二月丁未条】
  • 継体天皇25年2月

    大連となることは元のとおりであった。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇即位前紀 継体天皇二十五年二月是月条】
  • 安閑天皇元年10月15日

    安閑天皇が大伴大連金村に勅して「朕は四人の妻を召し入れたが、今に至るまで嗣子がいない。万世の後に朕の名は絶えてしまう。大伴の伯父よ。一計を案じてくれ。いつもこれを思うと憂慮に堪えないのだ」と。
    大伴大連金村が奏上して「このことはまた私が憂い申し上げていることでございます。我が国家の天下に王たる者は、お世継ぎの有無を論じるのではなく、必ず物によって名を為します。どうか皇后や次の妃の為に屯倉の地を建て、後世に留めて跡に顕しましょう」と。
    詔して「よろしい。速やかに設けよ」と。
    大伴大連金村が奏上して「小墾田屯倉(おはりだのみやけ)と国ごとの田部(たべ)屯倉の田を耕作する農民。紗手媛に賜りますよう。桜井屯倉(さくらいのみやけ)(ある本では茅渟山屯倉(ちぬのやまのみやけ)を加え賜うという)と国ごとの田部を香香有媛に賜りますよう。難波屯倉(なにわのみやけ)(こおり)ごとの钁丁(くわよほろ)田部と同義か。宅媛に賜りますよう。これらを以て後に示し、昔を思うようにしましょう」と。
    詔して「申すままに施行せよ」と。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年十月庚戌朔甲子条】
  • 安閑天皇元年閏12月4日

    安閑天皇三島(みしま)行幸に従った。

    天皇は大伴大連を遣わして、良田を県主飯粒に問うた。
    県主飯粒は喜ぶこと限りなく、謹しみ敬って誠を尽くした。そして上御野(かみのみの)下御野(しものみの)上桑原(かみのくわはら)下桑原(しものくわはら)、併せて竹村(たかふ)の地、全て合わせて四十町を献上した。
    大伴大連が勅を受けて言うには「国中には封土に非ざるはなく、天下には王域に非ざるはない。それで先の天皇は御名を顕し、広大な天下に副い、光り麗しい日月のように長駕して民を愛撫し、都の外に出ては国内を磨き照らして限り無く充たされた。御徳は天地の果てまで達し、四方八方まで行き渡った。礼を定めて功成ることを告げ、楽を作って政治が定まっていることを明らかにした。福に応え誠に至れば、祥慶は往歳に符合する。今お前味張は国内の人民一人に過ぎない。急に王地を惜しみ、勅使を軽んじて背いた。味張は今後、郡司に預かることはない」と。
    県主飯粒は喜びと恐懼が入り交じった。
    そしてその子の鳥樹を大連に献じて僮竪(しとべわらわ)少年の従者。とした。
    ここに大河内直味張は恐れ畏まって後悔した。そして地に伏して冷や汗を流した。
    大連に言うには「愚民の罪は万死に当ります。伏してお願い申し上げます。郡ごとに钁丁(くわよほろ)を春には五百丁、秋には五百丁、天皇に奉献致します。子々孫々に至るまで絶やしません。これによって生を乞い、永く戒めと致します」と。

    別に狭井田(さいた)六町を大伴大連に賂した。
    三島(みしま)竹村屯倉(たかふのみやけ)には河内県(かわちのあがた)部曲(うじやっこ)を田部とすることの始まりがここに起こったのであろう。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇元年閏十二月壬午条】
  • 安閑天皇2年12月17日安閑記では乙卯年三月十三日。

    安閑天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第十八 安閑天皇二年十二月己丑条】
  • 安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)

    宣化天皇が即位する。

    【日本書紀 巻第十八 宣化天皇即位前紀 安閑天皇二年十二月条】
  • 宣化天皇元年2月1日

    大連となることは元のとおりであった。

    【日本書紀 巻第十八 宣化天皇元年二月壬申朔条】
  • 宣化天皇2年10月1日

    宣化天皇は新羅が任那に寇することから大伴金村大連に詔して、その子の狭手彦を遣わして任那を助けさせた。

    この時には筑紫に留まり、その国の政を執って三韓に備えた。
    狭手彦は往って任那を鎮め、また百済を救った。

    【日本書紀 巻第十八 宣化天皇二年十月壬辰朔条】
  • 宣化天皇4年12月5日

    欽明天皇の即位に伴い、引き続き大連となる。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇即位前紀 宣化天皇四年十二月甲申条】
  • 欽明天皇元年9月5日

    欽明天皇難波祝津宮(なにわのはふりつのみや)行幸に許勢臣稲持物部大連尾輿らと共に従う。

    天皇が諸臣に「どれだけの軍勢があれば新羅を討てるだろうか」と問うた。
    物部大連尾輿らが奏上して「少々の軍勢では容易く征することはできません。昔、男大迹天皇の六年に百済が使いを遣わして、任那の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あるしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請しました。大伴大連金村は要請のままに求めてきた地を譲渡しました。これを新羅は積年の怨みとしております。軽々しく討伐してはなりません」と。

    大伴大連金村は住吉(すみのえ)の家にこもり、病と称して参朝しなかった。
    天皇は青海夫人勾子を遣わして慇懃に慰問させた。

    大連が恐縮して言うには「私が病とすることは他ではございません。私が任那を滅ばしたと諸臣が申しておりますので、恐怖で参朝できないのでございます」と。
    そして鞍馬(かざりうま)を使いに贈って厚く敬意を表した。
    青海夫人はあるままに奏上した。

    詔して「久しく忠誠を尽くしてきたのだ。人の噂を気にすることはない」と。
    遂に罪に問うことはなく、さらに厚遇するようになった。

    【日本書紀 巻第十九 欽明天皇元年九月己卯条】
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