泥部穴穂部皇子
- 名前
- 泥部穴穗部皇子【日本書紀】(はしひとのあなほべのみこ)泥部穴穂部皇子
- 穴穗部皇子【日本書紀】(あなほべのみこ)穴穂部皇子
- 三枝部穴太部王【古事記】(さきくさべのあなほべのみこ)
- 天香子皇子【日本書紀】(あまつかこのみこ)
- 住迹皇子【日本書紀】(すみとのみこ)
- 天香子【日本書紀】(あまつかこ)
- 須賣伊呂杼【古事記】(すめいろど)須売伊呂杼
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 敏達天皇14年8月15日)
- 没年月日
- 用明天皇2年6月7日
- 父
欽明天皇 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
- 母
小姉君 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
- 先祖
- 出来事
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敏達天皇14年8月15日敏達記では甲辰年四月六日。
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敏達天皇14年9月5日
用明天皇が即位する。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇即位前紀 敏達天皇十四年九月戊午条】 -
用明天皇元年5月
穴穂部皇子は炊屋姫皇后を犯そうとして自ら強行に殯宮に入ろうとした。
寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。穴穂部皇子は「誰がここにいるのか」と問うた。
衛兵は「三輪君逆がいます」と答えた。七度「門を開けよ」と叫んだが、遂に聞き入れられなかった。
穴穂部皇子が大臣と大連に言うには「逆は甚だ無礼である。殯宮の庭で
誄 を読んで『朝庭を荒らさぬよう鏡の面のようにお浄めし、臣がお仕え奉ります』と申した。これは無礼である。天皇の子弟は多くいて両大臣もいる。誰が勝手にお仕え奉るなど言うことが出来ようか。また余が殯の内を見ようと思っても、拒んで入れようとしない。私が『門を開けよ』と七度叫んだが応じることもなかった。是非とも斬り捨てたい」と。
両大臣は「仰せのままに」と答えた。
穴穂部皇子は密かに天下の王となる事を謀り、偽って逆君を殺そうとした。遂に物部守屋大連と兵を率いて磐余の池辺を包囲した。
逆君は気付いて三諸の岳に隠れた。この日の夜半に密かに山を出て後宮「炊屋姫皇后の別の宮をいう。これの名を海石榴市宮(つばきいちのみや)という」とある。に隠れた。
逆と同姓である白堤と横山は逆君の居場所を密告した。
穴穂部皇子は守屋大連を遣わして言うには「お前が行って逆君とその二子を討て」と。
大連は遂に兵を率いて出発した。蘇我馬子宿禰はその計画を伝え聞き、皇子の所に行って門「皇子の家の門をいう」とある。で会った。
大連の所へ行こうとしていたので「王者は刑人を近づけません。自ら行かれてはなりません」と諫めた。
皇子は聞かずに行ってしまった。馬子宿禰はやむなく随行した。磐余 に至り切に諌めた。
皇子は諫言に従い停止した。そしてそこで胡床にあぐらをかいて大連を待った。大連はしばらくしてやってきた。兵を率いて「逆らを斬り終えました」と復命した。
馬子宿禰は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言った。
これを聞いた大連は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。この三輪君逆は訳語田天皇の寵愛を受け、内外の事ことごとくを委ねられていた。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条】
これにより炊屋姫皇后後の推古天皇。と馬子宿禰は共に穴穂部皇子を恨むようになった。-
穴穂部皇子が自ら行って三輪逆を射殺したという。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年五月条 或本云】
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用明天皇2年4月2日記事に二年夏四月乙巳朔丙子とあるが、乙巳を朔日とすると丙子(32日)は誤り。次の崩御記事が癸丑(9日)であるから丙午(2日)か壬子(8日)が候補か。当サイトでは丙午とする。
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用明天皇2年4月9日用明記では丁未年四月十五日。
用明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】 -
用明天皇2年5月
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用明天皇2年6月7日
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用明天皇2年6月8日
【日本書紀 巻第二十一 崇峻天皇即位前紀 用明天皇二年六月辛亥条】宅部皇子が誅殺される。
穴穂部皇子と仲が良かったために誅されたとある。