履中天皇
- 名前
- 漢風諡号:履中天皇(りちゅうてんのう, りちうてんわう)
- 和風諡号:去來穗別天皇【日本書紀】(いざほわけのすめらみこと去來。此云伊奘。)去来穂別天皇
- 大兄去來穗別天皇【日本書紀】(おおえのいざほわけのすめらみこと, おほ𛀁のいざほわけのすめらみこと)大兄去来穂別天皇
- 大兄去來穗別皇子【日本書紀】(おおえのいざほわけのみこ, おほ𛀁のいざほわけのみこ)大兄去来穂別皇子
- 大兄去來穗別尊【日本書紀】(おおえのいざほわけのみこと, おほ𛀁のいざほわけのみこと)大兄去来穂別尊
- 大江之伊邪本和氣命【古事記】(おおえのいざほわけのみこと, おほ𛀁のいざほわけのみこと)大江之伊邪本和気命
- 大江之伊耶本和氣命校異【古事記】大江之伊耶本和気命
- 伊邪本和氣命【古事記】(いざほわけのみこと)伊邪本和気命
- 伊奘本別王【古事記】(いざほわけのみこ)
- 伊邪本和氣天皇【古事記】(いざほわけのすめらみこと)伊邪本和気天皇
- 去來穗別尊【先代旧事本紀】(いざほわけのみこと)去来穂別尊
- 稚櫻宮御宇天皇【先代旧事本紀】(わかさくらのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)稚桜宮御宇天皇
- 性別
- 男性
- 生年月日
- 仁徳天皇24年
- 没年月日
- 履中天皇6年3月15日
- 父
仁徳天皇 【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
- 母
磐之媛命 【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇二年三月戊寅条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 称号・栄典とても広〜い意味です。
- 第17代
天皇
- 第17代
- 出来事
-
仁徳天皇24年崩御記事にある年70から判断。ただしこの年の17年前の出来事に名前が出てくるので疑問。また立太子の記事の年齢から逆算すると仁徳天皇17年になる。
- ・・・
-
仁徳天皇7年8月9日崩御記事の年齢から判断すると、履中天皇はこの年にはまだ誕生していないことになる。
仁徳天皇が大兄去来穂別皇子後の履中天皇のために
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇七年八月丁丑条】壬生部 を定める。 -
伊邪本和気命の御名代として
【古事記 下巻 仁徳天皇段】壬生部 を定める。
-
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仁徳天皇31年1月15日【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇三十一年正月丁卯条】
立太子。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇即位前紀 仁徳天皇三十一年正月条】
時に年十五崩御記事の年齢を参考にすると、この年八歳。。 -
仁徳天皇87年1月16日仁徳記では丁卯年八月十五日。
仁徳天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇八十七年正月癸卯条】 -
仁徳天皇87年1月(16日 ~ 30日)
太子履中天皇のことを指す。は喪から出て、まだ即位しない間に、羽田矢代宿禰の女の黒媛を妃にしたいと思った。
婚約も整い、住吉仲皇子を遣わして吉日を告げさせた。
時に仲皇子は太子の名を騙って黒媛を犯した。翌日の夜、太子は仲皇子が犯したことを知らずにやって来た。
寝室に入り、帳を開けて寝床についた。このとき枕元から鈴の音が聞こえた。
太子は怪しんで黒媛に「何の鈴か」と問うと、「昨夜に太子が持っていた鈴ではございませんか。どうして私にお尋ねになるのですか」と答えた。
太子は仲皇子が名を偽って黒媛を犯したことを知り、しばらく黙ってそこを去った。仲皇子は大事に至ることを恐れ、太子を殺そうとして密かに兵を興して太子の宮を囲んだ。
時に平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直 の祖阿知使主の三人が太子に申し上げることがあったが太子は聞かなかった。あるいは太子が酔って起きられなかったという。
それで三人は太子を助けて馬に乗せて逃げた。あるいは大前宿禰が太子を抱いて馬に乗せたという。
仲皇子は太子が不在であることを知らずに太子の宮を焼いた。夜を通して火は消えなかった。太子は河内国の
埴生坂 で目が覚めた。
難波 の方を眺め、火の光を見て大いに驚いた。
そして急ぎ大坂から倭 に向かった。
飛鳥山 に至り、山の口で少女に出会った。
「この山に人はいるか」と問うと、「武器を持った者が山中に満ちています。引き返して当摩径 から越えなさい」と答えた。
太子は少女の言葉を聞いて難を免れた。そこで歌を詠んだ。「
於 朋 佐 箇 珥 阿 布 夜 烏 等 謎 烏 瀰 知 度 沛 麼 哆 駄 珥 破 能 邏 孺 哆 𡺸 摩 知 烏 能 流 」
さらに引き返して、その県で兵を集めて味方につけて、竜田山 を越えた。
時に数十人が兵を率いて追ってきた。
太子は遠くを望んで「あのやって来るのは誰だ。なぜ急ぎ追ってくるのか。もしや賊であろうか」と言った。
そして山中に隠れて待った。
近づいてくると一人を遣わして「誰であるか。また何処へ往くのか」と問うと、「淡路 の野島 の海人です。阿曇連浜子(あるいは阿曇連黒友という)の命令で仲皇子の為に太子を追っています」と答えた。
そこで伏兵を出して囲み、悉くを捕えた。この当時、倭直吾子籠と仲皇子は親しかった。
予めその謀を知っていて、密かに精兵数百を攪食 の栗林に集めて、仲皇子の為に太子を防ごうとした。
時に太子は兵が塞いでいることを知らず、山を出て数里のところで多数の兵が塞いで進めなかった。
そこで使者を遣わして「誰であるか」と問うと、「倭直吾子籠である」と答えた。
逆に使者に「誰の使いか」と問うと、「皇太子の使いである」と答えた。
時に吾子籠は多くの軍勢が集まっているのを憚り、使者に「伝え聞くところによると、皇太子に大変なことがおありになるということなので、お助けするために兵を備えて待っておりました」と言った。
しかし太子はその心を疑って殺そうとした。
吾子籠は恐れて、妹の日之媛を奉って死罪の許しを請うと、これを許された。
その倭直 らが采女を奉るのは、この時に始まったのだろう。太子は
石上振神宮 に来ていた。
瑞歯別皇子後の反正天皇。は太子が不在であることを知り、尋ねて追ってきた。
しかし太子は弟王の心を疑って会わなかった。
時に瑞歯別皇子が言うには「私に汚い心はございません。ただ太子がおいでにならぬのを心配して参ったのでございます」と。
太子が弟王に伝えて言うには「自分は仲皇子の反逆を恐れて独りここに来ている。なぜお前を疑わないでいられよう。仲皇子がいることは我が病である。これを除きたい。お前に汚い心が無いのであれば、引き返して難波にいる仲皇子を殺しなさい。然る後に会おうではないか」と。
瑞歯別皇子が太子に言うには「あなたはひどくご心配のようですが、いま仲皇子は無道であり、群臣及び百姓共々恨んでおります。またその配下の人もみな叛いて賊となっており、独り相談する相手もおりません。私はその逆らいを知っておりますが、太子の命を受けておりません。それで独り憤り嘆いているのですございます。いま命を受けて仲皇子を殺すことを憚ることなどございません。ただ恐れるのは、仲皇子を殺しても、猶も私が疑われることでございます。願わくは心の正しい者を遣わして頂き、私に欺く心が無いことを明らかにしたいと思います」と。
太子は木菟宿禰を副えて遣わした。
瑞歯別皇子が嘆いて言うには「太子と仲皇子は共に私の兄である。誰に従い、誰に背けばよいのだ。しかし無道を亡ぼし、有道に就けば、誰が私を疑うだろうか」と。難波に至り、仲皇子の消息を伺った。
仲皇子は太子がすでに逃亡したと思って、備えをしていなかった。
時に近習に隼人があった。刺領巾という。
瑞歯別皇子は密かに刺領巾を呼び、誘って「私の為に皇子を殺してくれ。私は必ずお前に厚く報いよう」と言うと、錦の衣・褌 を脱いで与えた。
刺領巾はその言葉を恃んで、独り矛をとり、仲皇子が厠に入るのを伺って刺し殺した。そして瑞歯別皇子に従った。
木菟宿禰が瑞歯別皇子に言うには「刺領巾は人の為に自分の君を殺しました。それは我々の為には大功ではありますが、自分の君には慈悲が無いこと甚だしい。どうして生かしておけましょう」と。
そして刺領巾を殺した。その日に
倭 に向った。
夜中に石上に着いて復命した。
そこで弟王を呼んで厚くもてなし、村合屯倉 を賜った。この日、阿曇連浜子を捕えた。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇即位前紀 仁徳天皇八十七年正月条】-
難波宮 で大嘗祭の酒宴があり、大御酒に気分がよくなって寝た。その弟の墨江中王は天皇履中天皇天皇とあるが即位前か。を殺そうと思って大殿に火をつけた。
この時に
倭漢直 の祖阿知直が天皇をこっそり連れ出して、御馬に乗せて倭 に向った。
多遅比野 に至る時に天皇が目覚めて「ここは何処か」と言った。
阿知直は「墨江中王が大殿に火をつけたので、それでお連れして倭に逃げているのでございます」と言った。
そこで天皇は歌を詠んだ。「
多 遲 比 怒 邇 泥 牟 登 斯 理 勢 婆 多 都 碁 母 母 母 知 弖 許 麻 志 母 能 泥 牟 登 斯 理 勢 婆 」
波邇賦坂 に至り、難波宮を望み見ると、その火は猶も赤々と燃えていた。
そこで天皇はまた歌を詠んだ。「
波 邇 布 邪 迦 和 賀 多 知 美 禮 婆 迦 藝 漏 肥 能 毛 由 流 伊 幣 牟 良 都 麻 賀 伊 幣 能 阿 多 理 」
大坂の山の入り口に至った時に一人の女に会った。
その女が言うには「武器を持った沢山の人たちが、この山を塞いでおります。当岐麻道 を回って越えられるのがよいでしょう」と。
そこで天皇は歌を詠んだ。「
淤 富 佐 迦 邇 阿 布 夜 袁 登 賣 袁 美 知 斗 閇 婆 多 陀 邇 波 能 良 受 當 藝 麻 知 袁 能 流 」こうして上って石上神宮に滞在した。
ここにその同母弟の水歯別命が面会を申し入れた。
天皇は「もしやあなたも墨江中王と同じ心ではないかと疑っているので、語り合うことはありません」と詔すると、「私に汚い心はございません。また墨江中王と同じではございません」と答えた。
また詔して「それならば、引き返して墨江中王を殺して戻ってきなさい。その時に必ず語り合おうではないか」と。それで難波に引き返して、墨江中王の近習の隼人、名は曽婆加理を欺いて「もしお前が私の言葉に従えば、私は天皇になり、お前を大臣として天下を治めようと思うがどうか」と言った。
曽婆訶理は「命に従います」と答えた。
そこで多くの品物を隼人に与えて「それならばお前の主君を殺せ」と言った。
曽婆訶理は密かに自分の主君が厠に入るのを伺い、矛で刺し殺した。それで曽婆訶理を連れて倭に上る時、大坂の山の口に至り、「曽婆訶理は私のために大功を立てたが、自分の主君を殺すことは不義である。しかしその功に報いないのは信義に反する。功に報いれば逆にその心が恐ろしい。それで功に報いたといえども本人は亡きものにしよう」と考えた。
そこで曽婆訶理に「今日はここに留まり、先に大臣の位を授けて、明日に上ろう」と言った。
その山の口に留まって仮宮を造った。
にわかに酒宴を開いて、その隼人に大臣の位を授けた。
百官に拝礼させると隼人は喜んで「願いがかなった」と思い込んだ。
そしてその隼人に「今日は大臣と同じ盃の酒を飲もう」と言った。
共に飲もうとする時に、顔を覆うほどの大きな鋺にその勧める酒を盛った。
そして王子が先に飲み、隼人が後に飲んだ。それで隼人が飲む時に大鋺が顔を覆った。
そこで敷物の下に置いていた剣を取り出して、その隼人の首を斬った。そして翌日に上った。
それでその地を名付けて近飛鳥 というのである。倭に着くと、「今日はここに留まり、禊払いをしてから明日参上して神宮を拝礼しよう」と詔した。
それでその地を名付けて遠飛鳥 というのである。そして石上神宮に参上して、天皇に「御命令は既に平らげまして参上致しました」と報告した。
【古事記 下巻 履中天皇段】
そこで呼び入れて共に語り合った。
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履中天皇元年2月1日
【日本書紀 巻第十二 履中天皇元年二月壬午朔条】磐余稚桜宮 にて即位する。-
【古事記 下巻 履中天皇段】伊波礼之若桜宮 にて天下を治めた。 -
後磐余稚桜朝に至り、三韓が貢献することは世を重ねても絶えることは無かった。
【古語拾遺 履中天皇段】 -
履中天皇元年2月1日
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履中天皇元年4月17日
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履中天皇元年7月4日
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履中天皇2年1月4日
瑞歯別皇子を立てて
【日本書紀 巻第十二 履中天皇二年正月己酉条】儲君 皇太子とする。 -
履中天皇2年10月
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履中天皇2年11月
【日本書紀 巻第十二 履中天皇二年十一月条】磐余池 を造る。 -
履中天皇3年11月6日
天皇は
【日本書紀 巻第十二 履中天皇三年十一月辛未条】両枝船 を磐余市磯池 に浮かべた。
皇妃とそれぞれ分乗して遊んだ。
膳臣余磯が酒を献上した。時に桜の花が盃に落ちた。
天皇は怪しんで、物部長真胆連を呼んで「この花は咲くべき時期でないのにやってきた。どこの花であろうか。お前が探してきなさい」と詔した。
長真胆連は独り花を尋ね、掖上 の室山 で手に入れて献上した。
天皇はその珍しさを喜んで宮の名とした。
それで磐余稚桜宮 というのは、これがそのもとである。-
【古事記 下巻 履中天皇段】若桜部臣 らに若桜部の名を賜った。
また比売陀君 らに姓を賜って比売陀君といった。
また伊波礼部 を定めた。
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履中天皇4年8月8日
はじめて諸国に
【日本書紀 巻第十二 履中天皇四年八月戊戌条】国史 を置いた。
言事 を記して諸国の情勢を報告させた。 -
履中天皇4年10月
【日本書紀 巻第十二 履中天皇四年十月条】石上溝 を掘る。 -
履中天皇5年3月1日
筑紫にいる三神が宮中に現れて言うには「なぜ我が民を奪うのか。私がお前に恥を与える」と。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年三月戊午朔条】
そこで祈祷はすることにしたが祭祀は行わなかった。 -
履中天皇5年9月18日
天皇は淡路島で狩りをした。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年九月壬寅条】
この日、河内飼部 らが従って馬の轡をとった。
これより先、飼部の目の縁の入墨がみな癒えず、島神代に、伊奘諾尊は仕事をすべて終えた後、淡路に幽宮を造って静かに永く隠れたことが記されている。にいた伊奘諾神が祝 に神懸かりして「血の臭さに堪えられない」と言った。
それで占ってみると、「飼部らの目の傷の気を憎む」と出た。
それでこれ以後、飼部らに入墨することをやめた。 -
履中天皇5年9月19日
風の音のように大空に呼ぶことがあり、「
【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年九月癸卯条】剣刀太子王 」という。
また呼んで「鳥往来 う羽田の汝妹 汝妹。此云儺邇毛。は羽狭丹 に葬 り立ちぬ」という。
また「狭名来田蒋津之命は羽狭丹に葬り立ちぬ」という。
すると急使がやってきて「皇妃がお隠れになりました」と言った。
天皇は大いに驚き、馬に乗って帰った。 -
履中天皇5年9月22日
淡路に至る。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年九月丙午条】 -
履中天皇5年10月11日
皇妃を葬った。
天皇は神の祟りを治めずに皇妃を亡くしたことを悔やんだ。またその咎を探した。ある者が言うには「
【日本書紀 巻第十二 履中天皇五年十月甲子条】車持君 が筑紫国に行き、すべての車持部 を調べて徴発して、充神 らの民を奪い取りました。きっとこれが罪でしょう」と。
天皇が車持君を呼んで問いただすと事実だった。
そして責めて言うには「おまえは車持君だが、勝手に天子の人民から徴発した。一つ目の罪である。また神にお配り申し上げた車持部を奪い取った。二つ目の罪である」と。
それで悪解除 ・善解除 を負わせて、長渚崎 に出して、禊祓をさせた。
そして「今後は筑紫の車持部を掌ってはならない」と詔した。
そこで悉く取り上げて三神に奉った。 -
履中天皇6年1月6日
草香幡梭皇女を立てて皇后とする。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年正月戊子条】 -
履中天皇6年1月29日写本によっては辛卯の日(履中天皇6年1月9日)。
はじめて
【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年正月辛亥条】蔵職 を建てた。そして蔵部 を定めた。-
阿知直を
【古事記 下巻 履中天皇段】蔵官 に任じた。また田地を賜った。
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履中天皇6年2月1日
鯽魚磯別王の女の太姫郎姫・高鶴郎姫を後宮に召し入れて
嬪 とした。この二人の嬪は常に「悲しいなぁ。我が兄王は何処に行ってしまったのだろう」と嘆いた。
【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年二月癸丑朔条】
天皇がその嘆きを聞いて「お前は何を嘆いているのだ」と問うと、「私の兄の鷲住王は力が強く身軽で、ひとり高く大きな家を飛び越えて行ってしまいました。それから幾日も経つのに、会って話ことも出来ません。それで嘆いているのでございます」と答えた。
天皇はその力が強いことを喜んで招喚したが応じなかった。
また重ねて使いを出しても、猶も応じることはなく、常に住吉邑 に居た。これ以後招喚することはなかった。
これは讃岐国造・阿波国 の脚咋別 の二族の始祖である。 -
履中天皇6年3月15日
天皇は病気になり、身体の不調から臭みが増してきて、
【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年三月丙申条】稚桜宮 で崩じた。
時に年七十。-
御年六十四歳。
【古事記 下巻 履中天皇段】
壬申年正月三日に崩じた。
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履中天皇6年10月4日
【日本書紀 巻第十二 履中天皇六年十月壬子条】百舌鳥耳原陵 に葬られる。-
御陵は
【古事記 下巻 履中天皇段】毛受 にある。
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