蘇我日向

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名前
  • 氏(ウジ):蘇我【日本書紀】が)
  • 姓(カバネ):臣【日本書紀】(お
  • 氏(ウジ):曾我【上宮聖徳法王帝説】が)曽我
  • 姓(カバネ):臣【上宮聖徳法王帝説】(お
  • 名:日向【日本書紀】むか)
  • 名:日向子【上宮聖徳法王帝説】むか
  • 字:身刺【日本書紀】(むざし)
  • 字:無耶志【上宮聖徳法王帝説】(むさし)
  • 身狹臣【日本書紀】(むさ)身狭臣
性別
男性
生年月日
( ~ 孝徳天皇元年6月19日)
没年月日
(白雉5年10月10日 ~ )
先祖
  1. 蘇我倉麻呂
    1. 蘇我馬子
      1. 蘇我稲目
      2. unknown
    2. unknown
  2. unknown
称号・栄典とても広〜い意味です。
  • 筑紫大宰帥つくしのおおみこともち【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月是月条】
出来事
  • 蘇我倉山田麻呂の長女を盗む。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年正月乙亥朔条】
  • 孝徳天皇元年6月(14日 ~ 19日)

    難波長柄豊碕宮御宇天皇孝徳天皇。の世に筑紫大宰帥に任ぜられる。

    【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
  • 白雉5年10月10日

    甲寅年十月癸卯朔壬子白雉5年10月10日。天皇不悆知恩院本は「永悆」とするが改めた。の為、般若寺を起した云々。
    ■京デジタルコレクション上宮聖徳法王帝説(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1189406)の18コマに見えるので、どなたか教えてたもれ。の時に定額寺となる。

    【上宮聖徳法王帝説 知恩院所蔵本 裏書】
  • 大化5年3月24日

    蘇我臣日向が倉山田大臣皇太子に讒言して「私の異母兄麻呂皇太子が海浜にいらっしゃる時を伺って(そこな)おうとしております。背くこと遠くありません」と。
    皇太子は信じた。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月戊辰条】
  • 大化5年3月25日

    孝徳天皇大伴狛連と蘇我日向臣を将として軍を率い大臣を追わせた。
    将軍の大伴連らが黒山(くろやま)に至ると、土師連身采女臣使主麻呂が山田寺から馳せ参じて「蘇我大臣は既に三男一女らと共に自ら経死されました」と告げた。
    これにより将軍らは丹比坂(たじひのさか)を経て帰還した。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月己巳条】
  • 大化5年3月26日

    山田大臣の妻子及び従う者、自ら経死した者は多かった。
    穂積臣噛大臣の一党の田口臣筑紫らを捉えて集め、首枷をかけて後ろ手に縛った。

    夕方、木臣麻呂・蘇我臣日向・穂積臣噛は軍を率いて寺を囲んだ。
    物部二田造塩を呼んで大臣の首を斬らせた。
    二田塩は大刀を抜き、その肉を刺し挙げ、叫び声を上げて斬った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月庚午条】
  • 大化5年3月(26日 ~ 30日)

    筑紫大宰帥を拝命する。世人は「これは隠流(しのびながし)だろう」と語り合った。

    【日本書紀 巻第二十五 大化五年三月是月条】
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