天日槍

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名前
  • 天日槍【日本書紀】(あ, あま
  • 天之日矛【古事記】(あ, あま
  • 海桧槍【古語拾遺】(あま)海桧槍
  • 天日桙命【新撰姓氏録抄】(あ
  • 天日槍命【新撰姓氏録抄】(あ
キーワード
  • 後裔は左京橘守(たちばなもり)・右京三宅連(みやけのむらじ)・大和国糸井造(いといのみやつこ)・摂津国三宅連【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
生年月日
( ~ 垂仁天皇3年3月30日)
没年月日
(垂仁天皇3年3月1日 ~ )
配偶者
  • 阿加流比売神あかるひめのかみ【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 麻拕能烏またのお【日本書紀 巻第六 垂仁天皇八十八年七月戊午条】
    • 前津見まえつみ【古事記 中巻 応神天皇段】
  • 但馬諸助たじまのもろすく多遅摩母呂須玖たじまもろすく古事記での母は前津見。【日本書紀 巻第六 垂仁天皇八十八年七月戊午条, 古事記 中巻 応神天皇段】【母:麻拕能烏またのお
出来事
  • 垂仁天皇3年3月

    新羅の王子天日槍がやって来た。
    持って来た物は羽太玉(はふとのたま)一つ・足高玉(あしたかのたま)一つ・鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしのたま)一つ・出石小刀(いずしのかたな)一つ・出石桙(いずしのほこ)一つ・日鏡(ひのかがみ)一つ・熊神籬(くまのひもろき)一つ、合わせて七点だった。
    即ち但馬国に蔵めて、常に神物とした。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三年三月条】
    • 今は但馬国の出石郡(いずしのこおり)に在り、大きな社となっている。

      【古語拾遺 垂仁天皇段】
  • 垂仁天皇88年7月10日

    垂仁天皇が群卿に詔して「朕が聞くところによれば、新羅の王子天日槍が始めて参った時に、持って来た宝物は今但馬にある。国人に貴ばれて神宝となっている。朕はその宝物を見てみたい」と。
    その日に使者を遣わして、天日槍の曽孫の清彦に詔して献上させた。
    清彦は勅を受けて自ら神宝を献上した。
    羽太玉(はふとのたま)一つ・足高玉(あしたかのたま)一つ・鵜鹿鹿赤石玉(うかかのあかしたま)一つ・日鏡(ひのかがみ)一つ・熊神籬(くまのひもろき)一具。
    ただ刀子(かたな)が一つだけあり、名を出石(いずし)という。清彦は急に刀子を献上するのをやめて、衣の中に隠して身につけた。
    天皇は刀子を隠していることに気付かずに、清彦をねぎらうために御所に呼んで酒を賜った。
    時に刀子が衣の中から現れてしまった。天皇はこれを見て清彦に「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」と問うた。
    清彦は刀子を隠せないことを知ると、「献上する神宝の一つです」と答えた。天皇は清彦に「その神宝は他と離しても良いのか」と言った。そこで出して献上した。すべて神府(みくら)に蔵めた。
    後に神府を開いて見てみると刀子が消えていた。そこで清彦に問うて「お前が献上した刀子が急に消えた。お前の所に行ってはいないか」と。清彦は「昨日の夕方、刀子が私の家にやって来て、今朝には消えておりました」と答えた。
    天皇は畏まって追求はしなかった。
    この後に出石刀子は自然と淡路島に行った。その島の人は神だと思い、刀子のために祠を立てた。これは今でも祀られている。

    昔、人が船に乗って但馬国に泊まった。それで「おまえは何処の国の人であるか」と尋ねると、「新羅の王子で名は天日槍と申します」と答えた。
    そして但馬に留まり、その国の前津耳(あるいは前津見という。あるいは太耳という)の(むすめ)麻拕能烏を娶り、但馬諸助が生まれた。これが清彦の祖父である。

    【日本書紀 巻第六 垂仁天皇八十八年七月戊午条】
    • 始め天日槍は船に乗って播磨国に泊まり、完粟邑(しさわのむら)にいた。
      時に天皇が、大友主長尾市を播磨に遣わして、天日槍に「お前は誰であるか。また何処の国の人か」と問うた。天日槍は答えて「私は新羅(しらぎ)国主の子です。日本国に聖皇ありと聞き、国を弟の知古に授けてやって参りました」と。
      そして献上した物は、葉細珠(はほそのたま)足高珠(あしたかのたま)鵜鹿鹿赤石珠(うかかのあかしのたま)出石刀子(いずしのかたな)出石槍(いずしのほこ)日鏡(ひのかがみ)熊神籬(くまのひもろき)胆狭浅大刀(いささのたち)、合わせて八点だった。
      天日槍に詔して「播磨国の完粟邑と、淡路島の出浅邑(いでさのむら)、この二邑をお前の好きなように住みなさい」と。
      天日槍が言うには「私の住むところは、もし天恩を垂れて願いを聞いて頂けるのであれば、私自ら諸国を巡り歩いて、心に適った地を選ばせて頂きたいと思います」と。それでこれを許された。
      天日槍は菟道河(うじがわ)を遡り、北の近江国の吾名邑(あなのむら)に入って暫らく住んだ。
      また更に近江より若狭国を経て、西の但馬国に居所を定めた。
      近江国の鏡村(かがみのむら)(はさま)陶人(すえひと)は、即ち天日槍の従者である。

      天日槍は但馬国の出島(いずし)の人、太耳の女の麻多烏を娶り、但馬諸助を生んだ。
      諸助但馬日楢杵を生んだ。
      日楢杵清彦を生んだ。
      清彦田道間守を生んだ。

      【日本書紀 巻第六 垂仁天皇三年三月条 一云】
    • 昔、新羅の国主(こにきし)に子がいた。名は天之日矛という。この人が渡来してきた。
      渡来してきたのにはわけがあった。

      新羅国に一つの沼があった。名は阿具奴摩(あぐぬま)という。
      この沼のほとりに一人の賎女が昼寝をしていた。
      このとき日が虹のように輝いて、その陰部を射した。
      また一人の賤夫がいて、その様子を不思議に思い、その女の行動を伺っていた。
      するとこの女は、その昼寝の時に妊娠して、赤玉を生んだ。
      そこでその様子を伺っていた賤夫は、その玉をもらい受けて、常に包んで腰につけていた。この人は田を谷間に作っていた。
      それで耕人たちの食料を一頭の牛に負わせて谷の中に入る時、その国主の子天之日矛に出会った。
      そしてその人に尋ねて「なぜお前は食料を牛に負わせて谷に入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食うつもりだろう」と。そしてその人を捕えて獄に入れようとすると、その人が答えて「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ農夫の食料を運ぶだけです」と。しかし猶も許すことはなかった。
      そこでその腰の玉を解いて、その国主の子に贈った。そこでその賤夫を許した。

      その玉を持って来て、床のそばに置いておくと、美しい少女に姿を変えた。それで結婚して正妻とした。
      その少女は、常に様々な珍味を用意して、いつもその夫に食べさせた。
      しかしその国主の子は、心奢って妻を罵るので、その女は「そもそも私は、あなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます」と言った。
      そして密かに小船に乗って逃げ渡って、難波(なにわ)に留まった。
      これは難波の比売碁曽(ひめごそ)の社にいる阿加流比売神である。

      天之日矛はその妻が逃げたことを聞くと、後を追って渡来した。
      難波に着こうとしたところ、その(わたり)の神海峡の神。が行く手を塞いで入れなかった。
      それでまた戻って多遅摩国(たじまのくに)但馬に停泊した。
      そしてその国に留まって、多遅摩之俣尾の女、名は前津見を娶り、生まれた子は
      多遅摩母呂須玖。これの子は
      多遅摩斐泥。これの子は
      多遅摩比那良岐。これの子は
      多遅麻毛理
      次に多遅摩比多訶
      次に清日子の三柱。

      この清日子当摩之咩斐を娶り、生まれた子は
      酢鹿之諸男
      次に妹の菅竈由良度美

      そして上に述べた多遅摩比多訶は、姪の由良度美を娶り、生まれた子は
      葛城之高額比売命
      これは息長帯比売命神功皇后の御母である。


      それでその天之日矛が持って渡って来た物は玉津宝(たまつたから)といって、珠二貫・浪を振り起こす領巾(ひれ)・浪を鎮める領巾・風を起こす領巾・風を鎮める領巾。また奥津鏡(おきつかがみ)辺津鏡(へつかがみ)、合わせて八種である。
      これらは伊豆志之八前大神である。

      【古事記 中巻 応神天皇段】
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