山背大兄王

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名前
  • 山背大兄王【日本書紀】(やましろのおおえのみこ, やましおほ𛀁
  • 山背大兄【日本書紀】(やましろのおおえ, やましおほ𛀁)
  • 山代大兄王【上宮聖徳法王帝説】(やましろのおおえのみこ, やましおほ𛀁
  • 山代大兄【上宮聖徳法王帝説】(やましろのおおえ, やましおほ𛀁)
  • 山背王【日本書紀】(やまし
  • 山尻王【聖徳太子平氏伝雑勘文】(やましりの, やましろの
  • 尻大王【聖徳太子平氏伝雑勘文】(しりのおおきみ, しりのおほ, しろのおおきみ, しろのおほ
性別
男性
生年月日
( ~ 推古天皇36年3月6日)
没年月日
皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)
  • 聖徳太子しょうとくたいし【上宮聖徳法王帝説】
  • 刀自古郎女とじこのいらつめ【上宮聖徳法王帝説】
先祖
  1. 聖徳太子
    1. 用明天皇
      1. 欽明天皇
      2. 堅塩媛
    2. 穴穂部間人皇女
      1. 欽明天皇
      2. 小姉君
  2. 刀自古郎女
    1. 蘇我馬古
      1. 蘇我稲目
      2. unknown
    2. unknown
配偶者
  • 舂米王つきしねのみこ【上宮聖徳法王帝説】
  • 難波麻呂古王なにわのまろこのみこ難波王なにわのみこ【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】【母:舂米王つきしねのみこ
  • 麻呂古王まろこのみこ麻里古王まりこのみこ【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】【母:舂米王つきしねのみこ
  • 弓削王ゆげのみこ【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】【母:舂米王つきしねのみこ
  • 佐々女王ささのひめみこ作々女王ささのひめみこ【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】【母:舂米王つきしねのみこ
  • 三島女王みしまのひめみこ【上宮聖徳法王帝説】【母:舂米王つきしねのみこ
  • 甲可王こうかのみこ加布加王かふかのみこ【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】【母:舂米王つきしねのみこ
  • 尾治王おわりのみこ乎波利王おはりのみこ【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】【母:舂米王つきしねのみこ
出来事
  • この王は賢く尊い心があり、身命を棄てて人民を愛した。後人は父を聖王とするのに異論を唱えるが、そうではない。

    【上宮聖徳法王帝説】
  • 山代大兄王は庶妹舂米王を娶り、生まれた児は
    難波麻呂古王
    次に麻呂古王
    次に弓削王
    次に佐々女王
    次に三島女王
    次に甲可王
    次に尾治王

    【上宮聖徳法王帝説】
  • 推古天皇36年3月6日

    推古天皇から「お前は未熟だから、もし心に望んでも言葉にしてはならない。必ず群臣の言葉を待って従いなさい」との言葉を賜る。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月壬子条】
  • 推古天皇36年3月7日

    推古天皇が崩じる。

    【日本書紀 巻第二十二 推古天皇三十六年三月癸丑条】
  • 推古天皇36年9月

    葬礼が終った。
    皇嗣は未だ定まっていなかった。

    この時、蘇我蝦夷臣大臣だった。
    一人で皇嗣を定めたいと思ったが、群臣が従わないのではないかと恐れた。
    阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。

    食事が終って散会しようとする時、大臣阿倍臣に命じ、群臣に語らせて「いま天皇が崩じて皇嗣が定まっていない。もし速やかに計らなければ、乱れがあるのではないかと恐れている。何れの王を後継者とするべきだろうか。天皇が病に臥した日、田村皇子に『天下は大任である。もとより容易く言うものではない。田村皇子よ。慎んで観察するように。怠ってはならない』と詔された。次に山背大兄王に『お前は一人であれこれ言ってしまう。必ず群臣の言葉に従うように。慎しんで背くことのないように』と詔された。これが天皇の遺言であるが、誰が天皇となるべきであろうか」と。
    群臣は黙って答えなかった。
    また問うても答えなかった。
    さらに強いて問うと、大伴鯨連が進み出て「天皇の遺命に従うのみです。群臣の言葉を待つ必要はありません」と言った。
    阿倍臣は「どういうことか。はっきりと述べよ」と問うた。
    答えて「天皇はどのような御心で田村皇子に『天下は大任である。怠ってはならない』と詔なされたかです。この言葉で皇位は既に定まっています。誰が異論を唱えましょうか」と。

    時に采女臣摩礼志高向臣宇摩中臣連弥気難波吉士身刺の四臣が言うには「大伴連の言葉に従います。異議はありません」と。
    許勢臣大麻呂佐伯連東人紀臣塩手の三人が進み出て言うには「山背大兄王が天皇になるのが宜しいでしょう」と。
    ただ蘇我倉麻呂臣だけは「今は簡単に申し上げることは出来ません。再考した後に申し上げましょう」と言った。

    こうして大臣と群臣は意見がまとまらないことを知って退席した。

    これより先、大臣が一人で境部摩理勢臣に「いま天皇が崩じて後継者がいない。誰が天皇になるべきだろうか」と尋ねると、「山背大兄を天皇に推挙致します」と答えた。

    この時、山背大兄は斑鳩宮(いかるがのみや)に居て、この議論を漏れ聞いた。
    そして三国王桜井臣和慈古の二人を遣わして、密かに大臣に言うには「伝え聞くところによると、叔父上は田村皇子天皇にしたいと思われているようですが、私はこの話を聞き、立っては思い、居ては思っても、未だその理を得ません。願わくは、はっきりと叔父上の心意を知りたいと思うのです」と。
    大臣は山背大兄の訴えに返答は出来ず、阿倍臣中臣連紀臣・河辺臣・高向臣采女臣大伴連許勢臣らを召喚して、詳しく山背大兄の言葉を説明した。

    やがてまた大夫らに言うには「お前たち大夫は共に斑鳩宮に詣でて、山背大兄王に『賤しい私がどうして一人で皇嗣を定められましょうか。ただ天皇の遺詔を群臣に告げただけでございます。群臣は揃って、遺言の通り田村皇子が皇位をお継ぎになることに異議は無いと言います。これは群卿の言葉でございます。特に私の心意というわけではございません。私の考えがあったとしても、恐れ多くてお伝え致しかねます。お目にかかった日に申し上げます』と申し上げよ」と。

    大夫らは大臣の言葉を受けて、共に斑鳩宮に詣でた。
    三国王桜井臣を使って大臣の言葉を山背大兄に伝えた。

    時に大兄王は群大夫らに伝え問わせて「天皇の遺詔は如何に」と言った。
    答えて「臣等はその深いお考えを理解致しかねます。ただし大臣の話によりますと、天皇が病臥あそばされた日に、田村皇子に『軽々しく国政に口を出してはいけない。お前田村皇子は言葉を慎むように。怠ってはならない』と詔あそばされ、次に大兄王に『お前は未熟である。あれこれやかましく言ってはならない。必ず群臣の言葉に従うように』と詔あそばされました。これは近侍や諸女王及び采女らの全てが知るとこであり、また大王もご存知であります」と。
    大兄王はまた「この遺詔は誰が聞いたか」と問わせると、「臣等はその機密を存じ上げませんでした」と答えた。
    さらにまた群大夫らに告げて「親愛なる叔父は労を思い、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教えさとされた。これは大恩である。しかし今、群卿の言う所の天皇の御遺命は、私の聞いたものと少々違っている。私は天皇が病臥あそばされたと聞き、参上して門下で侍っていると、中臣連弥気が中から出てきて『天皇がお召しです』と言うので、進み出て閤門に向った。栗隈采女黒女が庭中に出迎えて大殿に案内した。中では近習の栗下女王を頭として、女孺鮪女ら八人、合わせて数十人が天皇の側に侍っていた。また田村皇子もおられた。時に天皇の御病気が重くなり、私をご覧あそばされることも能わず、栗下女王が奏上して『お召しの山背大兄王が参りました』と申し上げた。天皇はお起きになられて『朕は寡薄だが久しく大業をつとめた。いま寿命が尽きようとしている。病を忌むことは出来ない。お前はもとより朕と心が通じている。寵愛の情は比べるものが無い。国家の大事は朕の世だけではない。お前は未熟であるから言葉を慎むように』と詔あそばされた。その時に侍っていた近習は全て知っている。それで私はこの大恩を蒙り、一度は恐れ、一度は悲しんだが、心は躍り上がり、歓喜して為す術を知らなかった。思えば社稷宗廟は重大事である。私は若くて賢くもない。どうして大任に当ることが出来ようか。この時に叔父や群卿たちに語ろうと思ったが、言うべき時が無く、今まで言えずにいた。私はかつて叔父の病を見舞おうとして、(みやこ)に行って豊浦寺(とゆらでら)に居た。この日に天皇が八口采女鮪女をお遣わしあそばされ、『お前の叔父の大臣は常にお前のこと憂えて、やがては嗣位(ひつぎのくらい)がお前に当るのではないかと言っている。だから慎んで自愛するように』との詔を賜った。既にはっきりこのような事があったのだ。何を疑おうか。しかし私は天下を貪る気はない。ただ聞いたことを明らかにするだけである。これは天神地祇が証明している。願わくは天皇の真の遺勅を知ることである。また大臣の遣わす群卿は、従来厳矛(いかしほこ)「嚴矛。此云伊箇之倍虛」とある。厳めしい矛。の中を取り持つように、正大に事を伝える人たちである。故によく叔父に申し伝えるように」と。

    別に泊瀬仲王中臣連・河辺臣を呼んで言うには「我ら父子は蘇我から出ていることは天下の知る所である。だから高山のように頼みにしている。願わくは嗣位のことは容易く言わないでほしい」と。
    そして三国王桜井臣に命じ、群卿に副えて遣わして「返事を聞きたいと思います」と言った。
    大臣紀臣大伴連を遣わして、三国王桜井臣に言うには「先日に申し上げております。変わりはございません。しかし臣が敢えて何れの王を軽んじ、何れの王を重んじることはございません」と。

    数日の後、山背大兄はまた桜井臣を遣わして、大臣に「先日の事は、聞いたことを述べただけです。むしろ叔父上に間違いあるのでしょうか原文「寧違叔父哉」とある。これは「叔父上に背くことはありません」と解すこともできるようだと岩波文庫日本書紀の注釈では述べている。」と告げた。

    この日、大臣は病が起こり、桜井臣の面前で話すことが出来なかった。

    翌日、大臣桜井臣を呼び、阿倍臣中臣連・河辺臣・小墾田臣・大伴連を遣わして、山背大兄に申し開きして「磯城島宮御宇天皇の御世から近世に至るまで、群卿はみな賢哲でありました。ただ私は不賢であり、たまたま人が乏しい時に当り、誤って群臣の上に立つことになったのです。それで物事の決定に手間取りますが、今回の事は重大です。人伝に申し上げられません。老臣ではありますが申し上げます。遺勅は誤ってはならないということで、私意ではございません」と。

    大臣阿倍臣中臣連に伝え、さらに境部臣に「どの王が天皇によいか」と問うと、「以前に大臣自ら問われて私は申し上げております。何を今更伝えることがありましょうか」と答え、大いに怒って行ってしまった。
    この時に蘇我氏の諸族が皆集って島大臣の為に墓を造って墓所に宿っていた。
    摩理勢臣は墓所の廬を壊して、蘇我の田家(なりどころ)田荘・別業。に退いて仕えなかった。
    大臣は怒って身狭君勝牛錦織首赤猪を遣わし、教えて言うには「私はお前の言葉の非を知っているが、親族の義から害することは出来ない。ただし他人に非がありお前が正しければ、私は必ず他人よりもお前に従う。もし他人が正しくお前に非があれば、私はお前と離れて他人に従う。これを以ってお前が遂に従わないのであれば、私はお前から離れる。国も乱れてしまう。そうなれば後世の人は我ら二人が国を損なったと言うであろう。これは後世の不名誉である。お前は慎しんで逆心を起こすことの無いように」と。
    しかし猶も従わず、遂に斑鳩に赴いて泊瀬王の宮に住んだ。

    大臣は益々怒り、群卿を遣わして山背大兄に言うには「この頃摩理勢が私に背いて泊瀬王の宮に隠れています。願わくは摩理勢を頂いて、そのわけを調べたいと思います」と。
    大兄王は答えて「摩理勢はもとより聖皇直後に先王とあることから見て聖徳太子を指すか。に可愛がられていたので、暫く身を寄せていたのです。叔父の情に背くことではありません。どうかお咎めにならないで下さい」と。
    そして摩理勢に語って「お前が先王の恩を忘れず、こちらへ来たことは甚だ愛しいことである。しかしお前一人が原因で天下が乱れてしまうことになる。先王が御臨終の際、諸子たちに『諸々の悪を行わず、諸々の善を行うように』と仰られた。私はこの言葉を承り、永く戒めとしている。だから私情が有るといえども、忍んで怨むことは無い。また私も叔父に背くことを良しとはしない。どうか今後は憚ること無く心を改めよ。群臣に従って退出することも無いように」と。
    大夫らは摩理勢臣に教えて「大兄王の命に背いてはならない」と言った。

    摩理勢臣は拠り所が無く、泣きながら帰って家に閉じこもること十日余り、泊瀬王が急に病を発して薨じてしまった。
    摩理勢臣は「私は誰を頼りに生きればよいのか」と言った。

    大臣境部臣を殺そうとして派兵した。
    境部臣は兵が来たことを聞き、仲子(なかち)兄弟で中間の子。阿椰を率いると門を出て胡床に坐って待った。
    時に兵がやってきて、命令を受けた来目物部伊区比が絞め殺した。
    父子共に死に、同じ所に埋められた。
    ただ兄子(このかみ)長子。毛津は尼寺の瓦舎(かわらや)に逃げ隠れた。
    そこで一人二人の尼を犯した。これを一人の尼が表沙汰にした。
    寺を囲んで捕えようとすると、脱出して畝傍山に入ったので山を探らせた。
    毛津は逃げ入る所も無く、頸を刺して山中で死んだ。

    時の人は歌った。

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    【日本書紀 巻第二十三 舒明天皇即位前紀 推古天皇三十六年九月条】
  • 皇極天皇2年11月1日

    蘇我臣入鹿小徳巨勢徳太臣大仁土師娑婆連土師娑婆連猪手と思われるが確証は無い。を遣わして山背大兄王たちを斑鳩(いかるが)で襲わせた。

    奴の三成と数十人の舎人が出陣して防ぎ戦った。
    土師娑婆連は矢に当って死に、兵士は恐れて退いた。
    軍中の人は「一人当千とは三成をいうか」と語り合った。

    山背大兄は馬の骨を取って寝殿に投げ入れた。
    遂にその妃と子弟たちを率いると隙を得て逃げ出して胆駒山(いこまやま)に隠れた。
    三輪文屋君・舎人の田目連とその女の菟田諸石伊勢阿部堅経が従った。

    巨勢徳太臣らは斑鳩宮を焼いた。
    灰の中に骨を見つけ、王の死だと誤って囲いを解いて退去した。

    これにより山背大兄王たちは四、五日間山に留まって食べる物も無かった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
  • 皇極天皇2年(11月5日 ~ 12月)

    三輪文屋君が進み出て言うには「どうか深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移動し、そこから馬に乗って東国に行き、乳部(みぶ)同元年十二月是歳条にも見える。をもとに兵を興し、戻って戦いましょう。そうすれば必ず勝てます」と勧めた。
    山背大兄王たちが答えて「お前の言う通りにすれば勝ちは必然であろう。ただし私は十年間は人民を役に労することが無いようにと思っている。どうして一人の身の為に万民を煩わせることが出来ようか。また後世に私が原因で父母が亡くなったと言われたくはない。戦いに勝てば丈夫(ますらお)と言えるのだろうか。身を捨てて国を固めれば丈夫と言えるのではなかろうか」と。

    ある人が遠くから上宮の王たちを山中に見つけ、戻って蘇我臣入鹿に伝えた。
    入鹿はこれを聞いて大いに恐れた。
    すぐに兵を発し、王のいる所を高向臣国押に教えて「速やかに山に向って彼の王を探し捕えよ」と言った。
    国押は「私は天皇の宮をお守るするので敢えて外には出ません」と答えた。
    入鹿は自ら行こうとした。

    時に古人大兄皇子が息を切らせながらやって来て「何処へ向うのか」と問うた。
    入鹿は詳しく理由を説明した。
    古人皇子は「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬ」と言った。
    入鹿はこれにより行くのをやめ、軍将らを遣わして胆駒を探させたが見つけることは出来なかった。

    山背大兄王たちは山を下りて斑鳩寺に入った。
    軍将らは兵に寺を囲ませた。

    山背大兄王は三輪文屋君を使って軍将らに言うには「私が兵を興して入鹿を討てば勝ちは必定である。しかし一人の身の為に人民を傷つけたくはない。だから我が身一つを入鹿にくれてやろう」と。
    遂に子弟・妃妾と諸共に自ら首をくくって死んだ。

    時に五色の幡と(きぬがさ)、様々な伎楽が空に照り輝いて寺に垂れかかった。
    衆人は仰ぎ見て嘆き、遂に入鹿を指し示した。
    その幡や蓋などは黒雲に変った。これにより入鹿は見ることが出来なかった。

    蘇我大臣蝦夷は山背大兄王たちが入鹿に亡ぼされたことを聞き、怒り罵って「ああ、入鹿は甚だ愚かだ。暴悪を専らにするとは。お前の身命は危ういだろう」と言った。

    時の人は先の謡同十月戊午条の童謡。を解釈して言うには「『岩の上に「伊波能杯儞」』というのは上宮(かみつみや)に喩え、『小猿「古佐屡」』というのは林臣「林臣とは入鹿のことである」とある。に喩え、『米焼く「渠梅野倶」』というのは上宮を焼くことに喩え、『米だにも、()げて通らせ、山羊(かましし)老翁(おじ)「渠梅施儞母 陀礙底騰褒羅栖 柯麻之之能鳴膩」』というのは山背王の白髪まじりの頭髪の乱れが山羊に似たのに喩えたのだ。またその宮を捨てて深い山に隠れたしるしである」と。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇二年十一月丙子朔条】
    • 皇極天皇2年10月14日

      飛鳥天皇の御世の癸卯年十月十四日。蘇我豊浦毛人大臣の児入鹿臣■■林太郎「■■」は欠失。伊加留加宮(いかるかのみや)にいた山代大兄及びその兄弟合せて十五王子の悉くを滅ぼした。

      【上宮聖徳法王帝説】
  • 皇極天皇3年6月3日

    志紀上郡(しきのかみのこおり)が言うには「ある人が三輪山で昼寝をする猿を見ました。その身を損なわないように、こっそりその腕を取ると、猿は眠ったまま歌って

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    と言ったので、その人は猿の歌を驚き怪しんで捨て去りました」と。
    これは数年を経て、上宮の王たちが蘇我鞍作の為に胆駒山に囲まれる兆しであった。

    【日本書紀 巻第二十四 皇極天皇三年六月乙巳条】