置目
- 名前
- 置目【日本書紀】(おきめ)
- 置目老媼【古事記】(おきめのおみな, おきめのをみな)
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 顕宗天皇元年2月30日)
- 没年月日
- (顕宗天皇2年9月1日 ~ )
- 出来事
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顕宗天皇元年2月
顕宗天皇は耆宿を集めて父が埋められた場所を自ら尋ねた。
一人の老婆が進み出て言うには「置目は御骨が埋まっている場所を存じております。お示し致します」と。
置目とは老婆の名である。近江国 の狭狭城山君 の祖倭帒宿禰の妹で、名を置目という。そこで天皇と皇太子億計は老婆を連れて、近江国の
来田綿 の蚊屋野 の中に行幸して掘り出して見てみると、はたして老婆の言葉のとおりであった。
穴を覗いて号泣し、嘆き悲しんだ。
古よりこのかた、このような酷いことはなかった。
仲子の屍は御骨に交わって見分けがつかなかった。
磐坂皇子の乳母が奏上して「仲子は上の歯が抜けておりますので、これで判別できます」と。
乳母の言うとおりに髑髏 を分けてみたが、ついに手足や胴体は判別出来なかった。それで蚊屋野の中に二つの陵を造って全く同じように似せた。
葬儀も異なるところは無かった。老婆置目に詔して宮のそばに住まわせた。
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月是月条】
崇め恵んで不自由のないようにした。-
天皇が父王の市辺王の御骨を探していた時、
淡海国 にいる賤しい老婆が参内して言うには「王子の御骨を埋めた場所を私はよく存じております。またその御歯で確認出来ましょう」と。
御歯は三技のような押歯 三つに割れた八重歯。だった。そこで民を集めて土を掘ると、その御骨を見つけることが出来た。
その御骨を得ると、蚊屋野 の東の山に御陵を造って葬った。
そして韓帒の子達にその陵を守らせた。
然る後に、その御骨を持って帰国した。還幸すると、その老婆を召し、忘れずにその地を覚えていたことを誉め、名を賜って置目老媼とした。
【古事記 下巻 顕宗天皇段】
そして宮の内に入れて、敦く広く慈しんだ。
それでその老媼の住む家を宮の側に造って毎日必ず召した。
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顕宗天皇元年2月
天皇が詔して「老婆は孤独でやつれて歩くのも不自由している。縄を張って引き渡し、それに掴まって出入りしなさい。縄の端に
鐸 を掛けて、取り次ぎの者に手間をかけさせぬように、入ったら鳴らしなさい。お前が来たことを朕が分るように」と。老婆は詔を受けて鐸を鳴らして入った。
天皇は遠くに鐸の音を聞いて歌を詠んだ。「
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月是月条】阿 佐 膩 簸 囉 嗚 贈 禰 嗚 須 擬 謨 謀 逗 拕 甫 奴 底 喩 羅 倶 慕 與 於 岐 每 倶 羅 之 慕 」-
鐸 大きな鈴。を大殿の戸に掛けて、その老媼を召す時に必ずその鐸を引き鳴らした。
そこで御歌を作った。その歌にいう。「
【古事記 下巻 顕宗天皇段】阿 佐 遲 波 良 袁 陀 爾 袁 須 疑 弖 毛 毛 豆 多 布 奴 弖 由 良 久 母 於 岐 米 久 良 斯 母 」
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顕宗天皇2年9月
置目が老いに苦しんで、帰還を望んで言うには「気力は衰え耄碌しました。縄の助けを借りても進み歩くことが出来ません。願わくは故郷に帰って、その終りを送ろうと思います」と。
顕宗天皇はこれを聞いて心を痛め、沢山の物を賜った。
別れることを悲しみ、再び会うのが難しいことを嘆いた。
そして歌を賜った。「
【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇二年九月条】於 岐 每 慕 與 阿 甫 瀰 能 於 岐 每 阿 須 用 利 簸 瀰 野 磨 我 倶 利 底 彌 曳 孺 哿 謨 阿 羅 牟 」-
置目老媼は「私はひどく老いました。本国に帰ろうと思います」と言った。
それで帰国する時に天皇は見送って歌を詠んだ。「
【古事記 下巻 顕宗天皇段】意 岐 米 母 夜 阿 布 美 能 於 岐 米 阿 須 用 理 波 美 夜 麻 賀 久 理 弖 美 延 受 加 母 阿 良 牟 」
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- 関連
倭帒宿禰 置目は倭帒宿禰の妹とある。【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇元年二月是月条】