名前
  • 漢風諡号:安閑天皇(あんかんてんのう, あんかんてんわう)
  • 和風諡号:廣國押武金日天皇【日本書紀】くにおしたかな)広国押武金日天皇
  • 廣國排武金日尊【日本書紀】くにおしたかな)広国排武金日尊
  • 勾大兄皇子【日本書紀】まがりのおおえのみこ, まがりのおほ𛀁
  • 勾大兄廣國押武金日天皇【日本書紀】まがりのおおえひろくにおしたけかなひのすめらみこと, まがりおほ𛀁くにおしたかな)勾大兄広国押武金日天皇
  • 廣國押建金日命【古事記】くにおしたかな)広国押建金日命
  • 勾大兄廣國排武金日尊【先代旧事本紀】まがりのおおえひろくにおしたけかなひのみこと, まがりおほ𛀁くにおしたかな)勾大兄広国排武金日尊
  • 勾大兄廣國排武金尊【先代旧事本紀】勾大兄広国排武金尊
  • 勾大兄廣國掛武金尊【先代旧事本紀】勾大兄広国掛武金尊
  • 廣國押武金日尊【先代旧事本紀】くにおしたかな)広国押武金日尊
  • 廣國樹武金日尊【先代旧事本紀】広国樹武金日尊
  • 廣國掛武金尊【先代旧事本紀】広国掛武金尊
  • 勾金橋宮御宇天皇【先代旧事本紀】まがりかなはしやにあしたしししす
生年月日
( ~ 継体天皇6年12月29日)
没年月日
安閑天皇2年12月17日
先祖
  1. 継体天皇
    1. 彦主人王
      1. 乎非王
      2. 久留比売命
    2. 振媛
      1. 乎波智君
      2. 阿那爾比弥
  2. 目子媛
    1. 尾張草香
配偶者
  • 皇后:春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ【日本書紀_巻第十七_継体天皇七年九月条】
  • 妃:紗手媛さてひめ【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年三月戊子条】
  • 妃:香香有媛かかりひめ【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年三月戊子条】
  • 妃:宅媛やかひめ【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年三月戊子条】
出来事
  • 継体天皇の第一皇子として生まれる。母は目子媛


    この天皇の人となりは、幼いころから器量が優れ、計り知ることはできなかった。
    武勇に優れ、寛大で、人君として相応しかった。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇即位前紀】
  • 継体天皇6年12月

    百済が使いを遣わして朝貢した。

    別に上表文を奉って任那国の上哆唎(おこしたり)下哆唎(あろしたり)娑陀(さだ)牟婁(むろ)の四県を要請した。
    哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山が奏上して「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっております。朝夕通いやすく、鶏も犬も分け難いほどでございます。いま百済に賜って合わせて同じ国とすれば、保全の策としてこれに過ぎるものはございません。しかし国を合わせても後世に危うさは残ります。まして境界を異とすれば何年ともたないでしょう」と。
    大伴大連金村は詳しくこの言葉を聞いて意見を同じくした。
    物部大連麁鹿火を勅使とした。

    物部大連は難波の館に行って、百済の使いに勅令を伝えようとするときに、その妻が強く言うには「住吉大神は海外の金銀の国、高麗・百済・新羅・任那などを胎中の誉田天皇に授けました。それで大后気長足姫尊と大臣武内宿禰が国毎に官家(みやけ)を置いて、海外の垣根としたのです。こうして久しく渡来するようになった由来があります。もし割いて賜わるようなことになれば、元の境界を違えてしまいます。後世の誹りを受けることになりましょう」と。
    大連が答えて「言っていることは理に適っているが、それでは勅に背くことになってしまう」と言った。
    その妻が強く諌めて「病気と申し上げてしまうのです」と言った。
    大連は諌めに従った。

    こうして勅使を改めた。
    賜物と併せて制旨を付けて、上表文に応じて任那の四県を賜った。

    大兄皇子は先に事情があって国を賜うことに関わらず、後になって勅宣を知った。
    驚き悔いて改めさせようと令して「胎中の帝の御世より官家を置いてきた国を軽々しく隣国の求めのままに容易く賜わってもよいのだろうか」と。
    日鷹吉士を遣わして、改めて百済の使いに宣べた。
    使者は答えて「父の天皇が便宜をお図りになられ、勅を賜わったことは既に終ったことでございます。子の皇子がどうして帝の勅を違えて妄りに改めて仰るのでしょうか。きっとこれは虚言でしょう。たとえこれが真実であっても、杖の大きい方で打つのと杖の小さい方で打つのとどちらが痛いでしょうか」と言うと退出した。

    ここに流言があって「大伴大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済から賄賂を受けている」と。

    【日本書紀_巻第十七_継体天皇六年十二月条】
  • 継体天皇7年9月

    勾大兄皇子は自ら春日皇女を迎えた。
    月夜に清らかに語り合い、思わず夜が明けた。
    歌を作る雅な心がすぐに形となり、口ずさんで言うには

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()()

    と。
    妃が答えて歌った。

    ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()() ()()()()()()()() ()()()()()() ()()()()()() ()()()()() ()(𛀁)()()()() ()()()() ()()()()()()() ()()()()𦤶() ()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()() ()()() ()()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()() ()()()()()()()() ()()()()() ()()()()()()() ()()()()()()()()

    【日本書紀_巻第十七_継体天皇七年九月条】
  • 継体天皇7年12月8日

    継体天皇が詔して「朕は天緒(あまつひつぎ)を承け、宗廟を保つことに兢兢業業としている。この頃は天下安静・国内平穏で豊年が続き、頻りに国を富ましてくれる。なんと喜ばしいことか。摩呂古よ。朕の心を八方に示してくれた。なんと盛んなことか。勾大兄が我が教化を万国に照らすこと。日本(やまと)は平和で、名は天下をほしいままにしている。秋津は赫々として誉れは高い。宝とするところは賢であり、善を最も楽しむ。聖化は遠く栄え、大功は長く懸かる。真にお前の力である。春宮にいて朕を助けて仁を施し、私の至らぬところを補ってくれ」と。

    【日本書紀_巻第十七_継体天皇七年十二月戊子条】
  • 継体天皇8年1月

    太子妃春日皇女は朝遅く出てきて異常なところがあった。
    太子は疑う心があって殿に入って覗いてみた。妃は床に伏して泣いていた。
    悶え苦しんで耐えられない様子だった。
    太子は怪しんで「今朝泣いていたが、何の恨みがあるのか」と問うた。
    妃が言うには「他ではございません。私が悲しむのは、飛ぶ鳥も子を育てるために木の末に巣を作ります。その愛情が深いからでございます。地を這う虫も子を守るために土の中に穴を掘ります。その守りを厚くします。ましてや人に至れば、どうして考えないで居られましょうか。後継ぎが無い恨みは太子に集まります。私の名も従って絶えてしまうでしょう」と。
    太子は心を痛めて天皇に奏上した。


    継体天皇が詔して「朕の子麻呂古。お前の妃の言葉は深く理に適っている。そんなことはどうでもいいと答えて、慰めることが無くてよいのか。匝布屯倉(さほのみやけ)を賜わり、妃の名を万世に表しなさい」と。

    【日本書紀_巻第十七_継体天皇八年正月条】
  • 継体天皇25年2月7日

    男大迹天皇大兄を立てて天皇とした。

    その日に男大迹天皇は崩じた。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇即位前紀_継体天皇二十五年二月丁未条】
  • 継体天皇25年2月

    大伴金村大連大連物部麁鹿火大連大連とすることは元のとおりであった。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇即位前紀_継体天皇二十五年二月是月条】
  • 安閑天皇元年1月

    大倭国勾金橋(おおやまとのくにのまがりのかなはし)に遷都して宮の名とした。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年正月条】
    • 勾之金箸宮(まがりのかなはしのみや)にて天下を治めた。

      【古事記_下巻_安閑天皇段】
  • 安閑天皇元年3月6日

    有司が天皇の為に億計天皇の娘の春日山田皇女にしるしを贈り皇后として迎えた。またの名を山田赤見皇女という。

    別に三妃を立てた。
    許勢男人大臣の娘の紗手媛
    紗手媛の妹の香香有媛
    物部木蓮子大連の娘の宅媛を立てた。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年三月戊子条】
    • この天皇は御子が無かった。

      【古事記_下巻_安閑天皇段】
  • 安閑天皇元年4月1日

    内膳卿(かしわでのつかさのきみ)膳臣大麻呂が勅を受け、使いを遣わして真珠を伊甚(いじみ)に求めた。
    伊甚国造らは(みやこ)に参上することが遅く、いつまでも献上しなかった。
    膳臣大麻呂は激怒し、国造らを捕縛して理由を問うた。
    国造稚子直らは恐懼して後宮の寝殿に逃げ隠れた。
    春日皇后は見知らぬ者が入ってきて、息をはずませて倒れてしまった。深く恥じること已む無しであった。
    稚子直らがみだりに後宮に入った罪は重かった。
    謹しんで専らに皇后の為に伊甚屯倉(いじみのみやけ)を献上して、乱入の罪を贖うことを請うた。
    それで伊甚屯倉を定めた。
    今は分けて(こおり)と為し、上総国(かみつふさのくに)に属する。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年四月癸丑朔条】
  • 安閑天皇元年5月

    百済が下部脩徳嫡徳孫上部都徳己州己婁らを遣わして調を貢いだ。

    別に上表した。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年五月条】
  • 安閑天皇元年7月1日

    詔して「皇后は天子の身分に等しいが、外部には御名が伝わらない。それで屯倉(みやけ)の地を充てて内宮を建て、後世に遺したい」と。
    そこで勅使を遣わして良田を探した。

    勅使は勅を受け、大河内直味張。またの名は黒梭に言うには「今お前は肥えた良田を進奉しなさい」と。
    味張は急に惜しくなり、勅使を欺いて「この田は旱魃では水を送りがたく、(にわたずみ)が入れば冠水します。苦労すること極めて多く、収獲は甚だ少いのです」と言った。

    勅使は言葉のままに復命して隠すことは無かった。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年七月辛巳朔条】
  • 安閑天皇元年10月15日

    天皇は大伴大連金村に勅して「朕は四人の妻を召し入れたが、今に至るまで嗣子がいない。万世の後に朕の名は絶えてしまう。大伴の伯父よ。一計を案じてくれ。いつもこれを思うと憂慮に堪えないのだ」と。
    大伴大連金村が奏上して「このことはまた私が憂い申し上げていることでございます。我が国家の天下に王たる者は、お世継ぎの有無を論じるのではなく、必ず物によって名を為します。どうか皇后や次の妃の為に屯倉の地を建て、後世に留めて跡に顕しましょう」と。
    詔して「よろしい。速やかに設けよ」と。
    大伴大連金村が奏上して「小墾田屯倉(おはりだのみやけ)と国ごとの田部(たべ)紗手媛に賜りますよう。桜井屯倉(さくらいのみやけ)(ある本では茅渟山屯倉(ちぬのやまのみやけ)を加え賜うという)と国ごとの田部を香香有媛に賜りますよう。難波屯倉(なにわのみやけ)(こおり)ごとの钁丁(くわよほろ)宅媛に賜りますよう。これらを以て後に示し、昔を思うようにしましょう」と。
    詔して「申すままに施行せよ」と。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年十月甲子条】
  • 安閑天皇元年閏12月4日

    三島(みしま)に行幸した。大伴大連金村が従った。

    天皇は大伴大連を遣わして、良田を県主飯粒に問うた。
    県主飯粒は喜ぶこと限りなく、謹しみ敬って誠を尽くした。そして上御野(かみのみの)下御野(しものみの)上桑原(かみのくわはら)下桑原(しものくわはら)、併せて竹村(たかふ)の地、全て合わせて四十町を献上した。
    大伴大連が勅を受けて言うには「国中には封土に非ざるはなく、天下には王域に非ざるはない。それで先の天皇は御名を顕し、広大な天下に副い、光り麗しい日月のように長駕して民を愛撫し、都の外に出ては国内を磨き照らして限り無く充たされた。御徳は天地の果てまで達し、四方八方まで行き渡った。礼を定めて功成ることを告げ、楽を作って政治が定まっていることを明らかにした。福に応え誠に至れば、祥慶は往歳に符合する。今お前味張は国内の人民一人に過ぎない。急に王地を惜しみ、勅使を軽んじて背いた。味張は今後、郡司に預かることはない」と。
    県主飯粒は喜びと恐懼が入り交じった。
    そしてその子の鳥樹を大連に献じて僮竪(しとべわらわ)とした。
    ここに大河内直味張は恐れ畏まって後悔した。そして地に伏して冷や汗を流した。
    大連に言うには「愚民の罪は万死に当ります。伏してお願い申し上げます。郡ごとに钁丁(くわよほろ)を春には五百丁、秋には五百丁、天皇に奉献致します。子々孫々に至るまで絶やしません。これによって生を乞い、永く戒めと致します」と。

    別に狭井田(さいた)六町を大伴大連に賂した。
    三島(みしま)竹村屯倉(たかふのみやけ)には河内県(かわちのあがた)部曲(うじやっこ)を田部とすることの始まりがここに起こったのであろう。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年閏十二月壬午条】
  • 安閑天皇元年閏12月

    廬城部連枳莒喩の娘の幡媛物部大連尾輿瓔珞(くびたま)を盗み取って春日皇后に献上した。
    事が発覚するに至り枳莒喩は娘の幡媛采女丁(うねめのよほろ)として献上した。これは春日部釆女(かすがべのうねめ)である。
    併せて安芸国の過戸(あまるべ)廬城部屯倉(いおきべのみやけ)を献上して娘の罪を贖った。
    物部大連尾輿は事が自分に関することを恐れて不安を感じ、十市部(とおちべ)、伊勢国の来狭狭(くささ)登伊(とい)贄土師部(にえのはじべ)、筑紫国の胆狭山部(いさやまべ)を献上した。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年閏十二月是月条】
  • 安閑天皇元年閏12月

    武蔵国造笠原直使主と同族の小杵が国造の地位を争い、年を経ても決め難かった。
    小杵は性質が険しくて逆らうことがあり、高慢で従順ではなかった。
    密かに上毛野君小熊に援助を求めて、使主殺害を謀った。
    使主は覚って逃げ出し、(みやこ)に参り出て状況を述べた。
    朝廷は使主を国造と裁断して小杵を誅した。
    国造使主は畏まりながらも喜び勇んだ。
    謹んで国家の為に横渟(よこぬ)橘花(たちばな)多氷(おおひ)倉樔(くらす)の四所に屯倉を置いた。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇元年閏十二月是月条】
  • 安閑天皇2年1月5日

    詔して「この頃は連年穀物が実り、国境の憂いもない。万民は生業を楽しみ、飢餓も免れている。仁風は全土に広まり、名声は天地を覆っている。内外は清み通り、国家は富み栄えている。朕の喜びも甚だしい。五日間大いに酒宴を催して天下と歓びを交えよ」と。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年正月壬子条】
  • 安閑天皇2年4月1日

    勾舎人部(まがりのとねりべ)勾靭部(まがりのゆきべ)を置く。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年四月丁丑朔条】
  • 安閑天皇2年5月9日

    筑紫(つくし)穂波屯倉(ほなみのみやけ)鎌屯倉(かまのみやけ)豊国(とよくに)腠碕屯倉(みさきのみやけ)桑原屯倉(くわはらのみやけ)肝等屯倉(かとのみやけ)大抜屯倉(おおぬくのみやけ)我鹿屯倉(あかのみやけ)火国(ひのくに)春日部屯倉(かすがべのみやけ)播磨国(はりまのくに)越部屯倉(こしべのみやけ)牛鹿屯倉(うしかのみやけ)備後国(きびのみちのしりのくに)後城屯倉(しつきのみやけ)多禰屯倉(たねのみやけ)来履屯倉(くくつのみやけ)葉稚屯倉(はわかのみやけ)河音屯倉(かわとのみやけ)婀娜国(あなのくに)胆殖屯倉(いにえのみやけ)胆年部屯倉(いとしべのみやけ)阿波国(あわのくに)春日部屯倉(かすがべのみやけ)紀国(きのくに)経湍屯倉(ふせのみやけ)河辺屯倉(かわへのみやけ)丹波国(たにわのくに)蘇斯岐屯倉(そしきのみやけ)近江国(おうみのくに)葦浦屯倉(あしうらのみやけ)尾張国(おわりのくに)間敷屯倉(ましきのみやけ)入鹿屯倉(いるかのみやけ)上毛野国(かみつけののくに)緑野屯倉(みどののくに)駿河国(するがのくに)稚贄屯倉(わかにえのくに)を置く。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年五月甲寅条】
  • 安閑天皇2年8月1日

    詔して国々の犬養部(いぬかいべ)を置く。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年八月乙亥朔条】
  • 安閑天皇2年9月3日

    桜井田部連(さくらいたべのむらじ)県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)難波吉士(なにわのきし)らに詔して「屯倉の税を司れ」と。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年九月丙午条】
  • 安閑天皇2年9月13日

    大連に勅して「牛を難波(なにわ)大隅島(おおすみのしま)媛島松原(ひめしまのまつばら)に放ち、名が後に伝わることを願おう」と。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年九月丙辰条】
  • 安閑天皇2年12月17日

    勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)にて崩御。
    時に年七十。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年十二月己丑条】
    • 安閑天皇4年3月13日

      乙卯年三月十三日に崩じた。

      【古事記_下巻_安閑天皇段】
  • 安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)

    河内旧市高屋丘陵(かわちのふるちのたかやのおかのみささぎ)に葬られる。

    皇后春日山田皇女及び天皇の妹の神前皇女も、この陵に合葬した。

    【日本書紀_巻第十八_安閑天皇二年十二月是月条】
    • 御陵は河内之古市高屋村(かわちのふるちのたかやむら)にある。

      【古事記_下巻_安閑天皇段】
    • 安閑天皇2年12月(17日 ~ 30日)

      河内古市高盧丘陵に葬られる。

      【先代旧事本紀_巻第九_帝皇本紀_安閑天皇二年十二月是月条】