中臣宮地烏摩侶 名前 氏(ウジ):中臣宮地【日本書紀】(なかとみのみやどころ) 姓(カバネ):連【日本書紀】(むらじ)連 名:烏摩侶【日本書紀】(おまろ, をまろ) 名:磨呂【日本書紀】(まろ) 生年月日( ~ 推古天皇16年6月15日) 没年月日(推古天皇20年2月20日 ~ ) 出来事 推古天皇16年6月15日 掌客(まらうとのつかさ)接待係。として大河内直糠手・船史王平らと共に隋の客人裴世清らを難波津で出迎える。 【日本書紀 巻第二十二 推古天皇十六年六月丙辰条】 推古天皇20年2月20日 皇太夫人堅塩媛が桧隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬される。 この日に軽(かる)の街中で誄(しのびごと)を奏上した。 第一に阿倍内臣鳥が天皇の言葉を誄して霊に供え物をした。明器(みけもの)・明衣(みけし)の類一万五千種である。 第二に諸皇子らが順に誄した。 第三に中臣宮地連烏摩侶が大臣の言葉を誄した。 第四に大臣が多数の支族を率いて、境部臣摩理勢に氏姓のもと堅塩媛は蘇我氏。を誄させた。 時の人が云うには「摩理勢・烏摩侶の二人の誄はよかった。ただ鳥臣の誄はよくなかった」と。 【日本書紀 巻第二十二 推古天皇二十年二月庚午条】