大山守皇子
- 名前
- 大山守皇子【日本書紀】(おおやまもりのみこ, おほやまもりのみこ)
- 大山守命【古事記】(おおやまもりのみこと, おほやまもりのみこと)
- 大山守王【新撰姓氏録抄】(おおやまもりのみこ, おほやまもりのみこ)
- キーワード
土形君 ・榛原君 。凡二族之始祖【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】- 土形君・
幣岐君 ・榛原君等之祖【古事記 中巻 応神天皇段】 - 土方公等祖・榛原君等祖【先代旧事本紀 巻第八 神皇本紀 応神天皇紀末段】
- 後裔は右京
日置朝臣 ・摂津国榛原公 ・河内国蓁原 【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
- 性別
- 男性
- 生年月日
- ( ~ 応神天皇40年1月8日)
- 没年月日
- 応神天皇41年2月(15日 ~ 30日)
- 父
応神天皇 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
- 母
高城入姫 【日本書紀 巻第十 応神天皇二年三月壬子条】
- 先祖
- 出来事
-
応神天皇40年1月8日
応神天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼んで「お前達は自分の子は可愛いか」と問うと、「とても可愛いです」と答えた。
また、「年が大きい子と小さい子ではどちらが可愛いか」と問うと、大山守命は、「大きい子の方が可愛いです」と答えた。天皇は悦んでいない様子だった。
大鷦鷯尊は天皇の様子を察して、「大きい子は年を重ねて一人前になっておりますので、不安はありません。ただ小さい子は、一人前になれるか分かりませんので、とても可愛そうです」と答えた。天皇は大いに悦んで、「お前の言葉は、我が心と同じである」と言った。このとき天皇は常に菟道稚郎子を立てて太子にしたいと思っていた。
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十年正月戊申条】
それで二皇子の心を知りたいと思ったて、この問いを発したのであり、大山守命の答えを悦ばなかったのである。 -
応神天皇40年1月24日
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応神天皇41年2月15日応神記では甲午年九月九日。
応神天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第十 応神天皇四十一年二月戊申条】 -
応神天皇41年2月(15日 ~ 30日)
大山守皇子は先帝が太子に立てなかったことを常に恨んでいた。
そして謀を企てて「私は太子を殺して帝位に登る」と言った。大鷦鷯尊はあらかじめその謀を聞き、太子に密かに告げると兵を備えて守らせた。
時に太子は兵を備えて待っていた。
大山守皇子はその兵の備えを知らずに、数百の兵士を率いて夜半に出発した。
明け方に菟道 について河を渡った。
時に太子は粗末な服を着て、楫を取って密かに渡し守にまじって、大山守皇子を船に乗せて渡した。
河の中ほどで、渡し守に命じて船を傾けさせると、大山守皇子は河に落ちた。
さらに浮き流れつつ歌った。「
知 破 揶 臂 苔 于 泥 能 和 多 利 珥 佐 烏 刀 利 珥 破 揶 鷄 務 臂 苔 辭 和 餓 毛 胡 珥 虛 務 」しかし伏兵が多くいて岸につくことが出来ず、遂に沈んで死んだ。
その屍を探させると、
考羅済 に浮かんだ。
時に太子はその屍を見て歌を詠んだ。「
智 破 揶 臂 等 于 旎 能 和 多 利 珥 和 多 利 涅 珥 多 氐 屢 阿 豆 瑳 由 瀰 摩 由 瀰 伊 枳 羅 牟 苔 虛 虛 呂 破 望 閉 耐 伊 斗 羅 牟 苔 虛 虛 呂 破 望 閉 耐 望 苔 弊 破 枳 瀰 烏 於 望 臂 泥 須 惠 弊 破 伊 暮 烏 於 望 比 泥 伊 羅 那 鷄 區 曾 虛 珥 於 望 比 伽 那 志 鷄 區 虛 虛 珥 於 望 臂 伊 枳 羅 儒 層 區 屢 阿 豆 瑳 由 瀰 摩 由 瀰 」そして
【日本書紀 巻第十一 仁徳天皇即位前紀 応神天皇四十一年二月条】那羅山 に葬った。-
天皇が崩じた後、大雀命は天皇の命に従って、天下を宇遅能和紀郎子に譲った。
しかし大山守命は天皇の命を違え、なお天下を得たいと思って、その弟皇子を殺そうと思った。そして密かに武器を用意して攻めようとした。大雀命は、その兄が武器を用意していることを聞くと、すぐに使者を遣わして宇遅能和紀郎子に知らせた。
それで驚いて、兵を河辺に伏せた。またその山の上に荒絹で作った幕を張り、偽って舎人 を王に仕立て上げて、目につくように呉床 に坐らせた。
百官が恭しく往来する様子は、王子のいる所のようだった。さらにその兄王大山守命が河を渡る時の為に、船の櫓や櫂を備えて飾り、さな葛の根を
舂 いて、その汁の粘液をその船の中の簀の子に塗って、踏めば倒れるように仕掛けた。その王子は布の衣と
褌 を身につけると、賤しい人の姿になって、楫を執って船に立った。
その兄王は、兵士を隠し伏せて、衣の下に鎧を着た。
河辺に着いて、まさに船に乗ろうとした時、その飾り立てた所を見て弟王宇遅能和紀郎子がその呉床にいると思い、楫を執って船に立っていることと知らずに、その楫とりに、「この山に凶暴な大猪がいると聞いている。私はその猪を討ち取りたいと思う。その猪を討ち取ることができるだろうか」と尋ねた。楫とりは「不可能でしょう」と答えた。
また「それはなぜか」と尋ねると、答えて「機会があるたびに行ってみましたが、討ち取れませんでした。それで不可能と申すのです」と。河の中ほどに渡った時、その船を傾けて水中に落とし入れた。
すると浮かび出て、水の流れに従って流れ下った。そして流れながら歌った。「
知 波 夜 夫 流 宇 遲 能 和 多 理 邇 佐 袁 斗 理 邇 波 夜 祁 牟 比 登 斯 和 賀 毛 古 邇 許 牟 」ここで河辺に伏せ隠れていた兵が、あちこちから一斉に姿を現して、弓に矢をつがえて追い流した。
そして訶和羅 の崎に流れ着いたところで沈んだ。そこで鉤でその沈んだ所を探すと、その衣の中の鎧に引っかかって「かわら」と鳴った。それでその地を名付けて
訶和羅前 という。屍を鉤で引き上げるとき、弟王が歌を詠んだ。
「
知 波 夜 比 登 宇 遲 能 和 多 理 邇 和 多 理 是 邇 多 弖 流 阿 豆 佐 由 美 麻 由 美 伊 岐 良 牟 登 許 許 呂 波 母 閇 杼 伊 斗 良 牟 登 許 許 呂 波 母 閇 杼 母 登 幣 波 岐 美 袁 淤 母 比 傳 須 惠 幣 波 伊 毛 袁 淤 母 比 傳 伊 良 那 祁 久 曾 許 爾 淤 母 比 傳 加 那 志 祁 久 許 許 爾 淤 母 比 傳 伊 岐 良 受 曾 久 流 阿 豆 佐 由 美 麻 由 美 」それでその大山守命の屍は
【古事記 中巻 応神天皇段】那良山 に葬った。
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