東城王

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名前
  • 東城王【日本書紀】(とうじょうおう, とうせいおう, とうせいわう)
  • 末多王【日本書紀】(またおう, またわう)
  • 未多王【新撰姓氏録抄】(みたおう, みたおう)
  • 多婁王校異【新撰姓氏録抄】(たるおう, たるわう)
キーワード
  • 後裔は河内国飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)【新撰姓氏録抄 当サイトまとめ】
性別
男性
  • 昆支王こんきおう【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年四月条】
先祖
  1. 昆支王
    1. 蓋鹵王
      1. 毘有王
      2. unknown
    2. unknown
  2. unknown
出来事
  • ・・・
    • 日本から久麻那利(こむなり)を賜る。

      日本書紀本文ではこの記事を否定している。
      【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十一年三月条 日本旧記云】
  • ・・・
    • 百済の文斤王が薨じた。
      雄略天皇昆支王の五子の中で第二の末多王が幼くして聡明なので勅して内裹に招いた。
      自ら頭を撫でて懇ろに戒めてその国の王とした。
      そして兵器を賜り、あわせて筑紫国の兵士五百人を遣わして国に守り送らせた。
      これを東城王という。

      【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年四月条】
  • ・・・
    • (479年2月7日 ~ 480年1月27日)

      百済の貢物が例年よりも勝っていた。

      【日本書紀 巻第十四 雄略天皇二十三年是歳条】
  • ・・・
    • (487年2月9日 ~ 488年1月28日)

      任那の左魯那奇他甲背らが謀って、百済の適莫爾解爾林(にりん)で殺した。爾林は高麗の地である。
      帯山城(しとろもろのさし)を築いて東道(やまとじ)を守った。
      糧食を運ぶ津を断ち、兵士は飢えに苦しんだ。

      百済王は激怒し、領軍(いくさ)古爾解内頭(ないとう)莫古解らを遣わして、兵を率いて帯山を攻めさせた。
      生磐宿禰は進軍して迎え撃った。勢い盛んで向うところ全て破った。
      一を以って百に当たったが、俄に兵は力尽き、失敗を知って任那から帰った。

      これにより百済国は佐魯那奇他甲背ら三百余人を殺した。

      【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年是歳条】
  • ・・・
    • (502年1月24日 ~ 503年2月11日)

      百済の末多王は無道で人民を虐げた。
      国人は遂に王を捨てて島王を立てた。これを武寧王という。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条】
    • 末多王は無道で人民を虐げた。
      国人は共に王を捨てて武寧王を立てた。
      諱は斯麻王。これは琨支王子の子で、末多王の異母兄である。
      琨支(やまと)に向う時に筑紫島で斯麻王が生まれた。島から送り還した。
      (みやこ)に至らず、島で産まれたのでこのように名付けた。
      各羅(かから)の海の中に主島(にりむせま)がある。王が産まれた島である。
      それで百済人は名付けて主島と名付けた。

      今考えるに島王蓋鹵王の子である。末多王は琨支王の子である。
      これを異母兄というのは未だ詳らかでない。

      【日本書紀 巻第十六 武烈天皇四年是歳条 百済新撰云】