画部因斯羅我 名前 畫部因斯羅我【日本書紀】(えかきのいんしらが, ゑかきのいんしらが)画部因斯羅我 生年月日( ~ 雄略天皇7年12月30日) 没年月日(雄略天皇7年1月1日 ~ ) 出来事 雄略天皇7年 百済の人材を求める雄略天皇に応じて手末才伎(たなすえのてひと)として渡来した。 天皇は倭(やまと)国の吾礪(あと)の広津(ひろきつ)廣津。此云比慮岐頭。邑に置いた。しかし病死する者が多かった。 そこで天皇は大伴大連室屋に詔し、東漢直掬に命じて新漢陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原(かみつももはら)・下桃原(しもつももはら)・真神原(まかみのはら)の三ヶ所に移住させた。 【日本書紀 巻第十四 雄略天皇七年是歳条】