穴穂部間人皇女
- 名前
- 穴穗部間人皇女【日本書紀】(あなほべのはしひとのひめみこ)穴穂部間人皇女
- 泥部穴穗部皇女【日本書紀】(はしひとのあなほべのひめみこ)泥部穴穂部皇女
- 間人穴太部王【古事記】(はしひとのあなほべのみこ)
- 間人穴大部王校異【古事記】
- 穴穗部間人王【上宮聖徳法王帝説】(あなほべのはしひとのみこ)穴穂部間人王
- 穴太部間人王【上宮聖徳法王帝説】(あなほべのはしひとのみこ)
- 鬼前太后【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】(かんさきのおおきさき, かむさきのおほきさき)
- 鬼前大后【上宮聖徳法王帝説】(かんさきのおおきさき, かむさきのおほきさき)
- 神前皇后【上宮聖徳法王帝説】(かんさきのきさき, かむさきのきさき)神前皇后
- 穴太部王【上宮聖徳法王帝説】(あなほべのみこ)
- 孔部間人公主【上宮聖徳法王帝説,天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(あなべのはしひとのひめみこ)
- 孔部間人母王【上宮聖徳法王帝説】
- 孔部間人王【天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】(あなべのはしひとのみこ)
- 間人孔部王【聖徳太子平氏伝雑勘文】(はしひとのあなべのみこ)
- 埿部穴穗部皇女【先代旧事本紀】(はしひとのあなほべのひめみこ)埿部穴穂部皇女
- 埿部穴穗皇女校異。小姉君第三子を埿部穴穂部皇女、第四子を埿部穴穗皇女とするものもある。【先代旧事本紀】(はしひとのあなほのひめみこ)埿部穴穂皇女
- 性別
- 女性
- 生年月日
- ( ~ 用明天皇元年1月1日)
- 没年月日
- 推古天皇29年12月21日
- 父
欽明天皇 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
- 母
小姉君 【日本書紀 巻第十九 欽明天皇二年三月条】
- 先祖
- 配偶者
- 子
- 出来事
-
用明天皇元年1月1日
用明天皇の皇后となる。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇元年正月壬子朔条】 -
用明天皇2年4月9日
用明天皇が崩じる。
【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】 -
(用明天皇2年4月9日 ~ )【日本書紀 巻第二十一 用明天皇二年四月癸丑条】
多米王に娶られる。
【上宮聖徳法王帝説, 聖徳太子平氏伝雑勘文 下三 大宮太子御子孫并妃等事 上宮記下巻注云】 -
推古天皇29年12月21日
日の入りに崩じる。
【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】-
推古天皇29年12月
法興崇峻天皇四年を元年とする年号。元丗一年、辛巳年十二月に崩じる。
【法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘】
-
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推古天皇30年2月22日
夜半に太子が崩じる。
【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】 -
(推古天皇30年2月22日 ~ )
時に多至波奈大女郎は悲しみ嘆息して言うには「畏き天皇の前で申し上げるのは勘点文はここに「皇前曰啓」を置く。ここでは勘点文に従う。恐れ多いことですが、懐く心を止めるのは難しいのです。我が大王と母王が期を同じくして従遊されました。痛酷は比べようがありません。我が大王のお告げでは、世間は虚仮であり、ただ仏のみが真であると仰いました。その法を玩味すると、我が大王はまさに天寿国の中に生まれるべきだと思うのです。しかしその国の形は目には見えません。願わくは図像に因り、大王往帝説知恩院本は「往」、勘点文は「住」とする。帝説に従う。生のお姿を拝見したいと思います」と。
【上宮聖徳法王帝説 法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字, 天寿国曼荼羅繡帳縁起勘点文】
天皇はこれを聞いて悽然帝説知恩院本は「悽状一」とするが誤りであろう。勘点文に従い「悽然」に改めた。として言うには「我が孫が申すことは誠である。その通りにせよ」と。
諸々の采女らに勅して繍帷二張を造らせた。